皆さん、NHK大河ドラマ「いだてん」、見てらっしゃいますか?
私は熊本在住なので、主人公、金栗四三の熊本弁にとっても親しみを感じ、毎週楽しく見ています。
しかし、次回から「いだてん」は第2部になり、主人公も田畑政治(たばた まさじ)に変わります。
田畑政治は1964年の東京オリンピックの開催実現に大きな貢献をした人物です。
でも私は田畑政治のことを知らなかったので、ちょっと予習してみました。
そうしたら、そのまっすぐで、そして平和を願う生き方に大変感動を覚えました。
今回は田畑政治の経歴と家系図、妻と息子そして名言を紹介したいと思います。
第1部の主人公、金栗四三についてはこちらをどうぞ。
田畑政治の経歴
それではまず、田畑政治の経歴について見ていきましょう。
田畑政治は1898(明治31)年12月1日、静岡県浜名郡浜松町(現在の浜松市中区)に生まれました。
実家は裕福な造り酒屋で、浜名湖にある弁天島に別荘があったそうです。
田畑政治は幼い頃からそこで泳ぎ、水泳が得意になりました。
田畑政治は旧制浜松中学校(現在の県立浜松北高校)に進学し、水泳部に入部します。
しかし、4年生の時に盲腸炎と大腸カタルにかかり、医師から「泳げば死ぬ。」と水泳を止められます。
ショックだったでしょうね。
普通はここで諦めるしかないのですが、田畑政治は、選手になれないのなら後輩を鍛えて浜名湖を水泳で日本一にしようと考えました。
そして浜名湾遊泳協会というものを作り、指導を始めます。
旧制浜松中学を卒業後、田畑政治は第一高等学校(現在の東京大学教養学部)、東京帝国大学(現在の東京大学)政治学科に進みます。
スポーツだけではなくて勉強もできたんですね。
田畑政治は東京で学生生活を送りながらも、しょっちゅう浜松に戻っては後輩達の指導を続けました。
浜名湖の海水浴場の一角にプールまで作るという熱の入れようでした。
実家がお金持ちだからそんなことができたんですけどね。
こうして田畑政治が育てたチームは全国大会で優勝するまでになりました。
1924(大正13)年、田畑政治は東京帝大を卒業し、朝日新聞社に入社します。
政治部記者としても非常に優秀でどんどん昇格していくのですが、相変わらず水泳に関わり続け、入社1年目に大日本水上競技連盟の理事に就任します。
政治部記者なんて、時間がいくらあっても足りないくらいに忙しいと思いますが、駆け出し記者時代によくそんなことができましたね。
仕事をこなしながら水泳指導者としても益々力を発揮し、1928(昭和3)年、アムステルダムオリンピックにおいて平泳ぎの鶴田義行選手が金メダル、男子800m自由形リレーが銀メダル、自由形の高石勝男選手が銅メダルという素晴らしい記録を打ち立てました。
4年後のロサンゼルスオリンピックでは水泳日本代表の監督になり、金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル2個を獲得しました。
ロサンゼルスオリンピックの翌年、1933(昭和8)年に結婚。
1936(昭和11)年のベルリンオリンピックでも金メダル4個、銀メダル2個、銅メダル5個を獲得しました。
その4年後、1940年のオリンピックは東京で開催される予定でしたが、日中戦争の影響で中止に。
その後も戦争でオリンピックは取りやめになり、やっと開催された1948年のロンドンオリンピックに、敗戦国となった日本は参加が認められませんでした。
その年、日本水泳連盟の会長に就任した田畑政治は、日本選手権の決勝をロンドンオリンピックの競泳の日に合わせて行い、世界に日本代表の力を知らしめたのです。
そんな風に水泳とオリンピックに情熱を注いでいた田畑政治ですが、その翌年、1949年には朝日新聞社の常務に就任します。
いや、すごいですねー!
田畑政治は日本スポーツが再び世界で活躍できるよう尽力し、ロンドンオリンピックの翌年には国際水泳連盟に加盟することができました。
田畑政治は1952年のヘルシンキ五輪と1956年のメルボルン五輪では日本選手団の団長を務めます。
そして、1964年の東京オリンピック開催を実現させるのです。
1959年に東京開催が決定すると、田畑政治はオリンピック組織委員会の事務総長に就任しました。
そして「日本スポーツの父」と呼ばれる嘉納治五郎の意志を受け継ぎ、柔道をオリンピック正式種目とします。
また女子バレーボールも正式種目になりました。
これがあったから「東洋の魔女」の活躍があったのですね。
しかしその後、政治的な問題がスポーツに持ち込まれたことが影響して、
田畑政治は事務総長を辞任することになりました。
1973年には日本オリンピック委員会(JOC)の会長に就任しました。
1980年のモスクワオリンピックでは日本を含む西側諸国がボイコットすることに。
今までひたすら純粋に日本スポーツの躍進のために情熱を傾けてきた田畑政治はどんなに悲しかったことでしょう。
この頃、田畑政治はパーキンソン病を患い、1984年のロサンゼルスオリンピックの直前には命が危ない状態でしたが、奇跡的に持ち直し、病室で涙を浮かべながらテレビ観戦をしたのだそうです。
そしてロサンゼルスオリンピック閉会から2週間後、85歳でその生涯を閉じました。
田畑政治の一生は、本当に日本スポーツ界のために捧げられた一生だったのですね。
田畑政治の家系図について
田畑政治の家系図も話題になっています。
調べてみたら、特にメディア関係で活躍した人がたくさんおられるんですね。
田畑政治は、父親の庄吉さんと母親のうらさんの間に生まれました。
35歳の時に酒井菊枝さんと結婚します。
菊枝さんの父親は吉之助さんです。
そして田畑政治と菊枝さんの間に息子が一人、娘が二人生まれます。
息子の名前は和宏さん、長女は治子(はるこ)さん、次女は醇子(あつこ)さんと言われます。
和宏さんはNHKの理事をされた方です。
醇子さんはアメリカに留学し、カリフォル二ア大学に通っていましたが、その時、フレッド和田さんという実業家のお宅にホームステイをしました。
フレッド和田さんは東京オリンピック開催の時に田畑政治に協力をした人だそうです。
醇子さんは帰国して、ホームステイ先で出会ったオランダ人に習ったチーズケーキの作り方を浜松のまるたや洋菓子店に教えました。
まるたや洋菓子店の店主の妻公子さんは田畑政治の姪だったのです。
そのチーズケーキは今や浜松銘菓として全国的に有名です。
また田畑政治の従兄弟に水野成夫(みずのしげお)さんがおられます。
年齢は田畑政治より1歳年下です。
その水野成夫さんはフジテレビの初代社長です。
現在の産経新聞を傘下に入れてフジサンケイグループの土台を作りました。
その長男である水野誠一さんの妻は女優の木内みどりさんです。
このように、田畑政治の家系図を見ると、そこには日本のメディア関係で活躍した人々が多数おられることが分かりました。
田畑政治の妻と息子は?
次に田畑政治の妻と息子について見ていきましょう。
田畑政治の妻は菊枝さんと言われます。
妻、菊枝さんは日本橋の老舗「酒井商店」の長女でした。
妻は新聞社で速記係を務めており、田畑政治の話を速記したり、メモを解読したりして田畑を助けました。
また夫のオリンピックにかける情熱を理解し、陰ながら支え続けた妻でした。
息子の田畑和宏さんは1940年に生まれました。
息子の和宏さんはNHKに勤務されていて1997年から2年間はNHKの理事をされていました。
NHK理事を退任された後もNHKの関連企業に勤務されていました。
またNHK交響楽団の理事長も務めておられたのですが、2005年頃、NHKからの補助金がカットされた時には、交響楽団の活動のために何とか収入を得ようといろいろな改革を実行します。
観客の年齢層を広げるために、定期演奏会を週末にするようにしたり、夏休みに音楽教室を開いたり、携帯電話の着メロ配信や演奏会のインターネット配信なども実現させました。
がんばっている誰かのために、知恵を駆使してものごとをやり遂げようとする姿勢は、父親の田畑政治と息子の和宏さん、共通したものをもっておられたようですね。
田畑政治の名言も調査!
acworksさんによる写真ACからの写真
田畑政治は世界平和の象徴としてのオリンピックの実現に力を注ぎました。
途中で戦争のためにオリンピックが中止に追い込まれたり、日本が参加を拒否されたりしたことは、田畑政治にとってどんなに悔しいことだったでしょう。
そして1964年東京オリンピック開催にこぎ着けた時はどんなに嬉しかったことでしょうね。
その聖火リレーに関して、真の平和を願う田畑政治の心打たれるエピソードと名言が残っています。
この時の聖火は、ヤンゴン(ミャンマーの旧首都)、バンコク、クアラルンプール、マニラ、の香港(当時、英国統治下)、台北、そして返還前の沖縄を回って日本にやって来ました。
太平洋戦争で戦場になり、多くの尊い命が犠牲になった地を巡って日本に到着したのです。
これは田畑政治が考えたことでした。
平和を願っている日本の姿を世界に見てもらおうとしたのです。
そして国立競技場の聖火台に火を灯す最終ランナーに選ばれたのは、広島に原爆が投下された1945年8月6日に生まれた19歳の坂井義則さんでした。
「そんなことをしたらアメリカに悪いのでは。」と、アメリカに気を遣うオリンピック組織委員の前で、田畑政治はこう言いました。
米国に阿(おもね)って、原爆に対する憎しみを口にしえない者は、世界平和に背を向けるひきょう者だ!
引用元https://www.zakzak.co.jp/soc/news/190108/soc1901080004-n2.html
このことを知って、私はすごく感動しました。
こんな人達の熱き努力によって、平和の祭典、オリンピックが開催されてきたのですね。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックも平和のうちに、選手達の熱き戦いが繰り広げられることを願います!