皆さん、加藤明(かとうあきら)さんという方をご存じですか?
この方はバレーボールの監督をされた方なのですが、ペルーでは知らない人がいないほど有名な方なのです。
加藤明さんは弱小チームのペルー女子バレーボールチームをオリンピックで4位入賞するほどの強いチームにし、ペルーでその生涯を閉じた方なのです。
今回はそんな加藤明さんについてまとめてみました。
加藤明の家族について!
まず、加藤明さんのご家族について調べてみました。
加藤さんには典子さんと言われる妻がおられたようです。
ペルーからの要請を受けてペルーに渡り、女子バレーを指導することになるのですが、妻はどうされたのでしょう?
加藤さんはよく、選手達にご飯をご馳走したということで、すき焼きをしたりもされています。
ということは、もしかしたら妻も一緒にペルーに行かれたのかも知れませんね。
もしくは時々、ペルーの加藤さんのところに行かれていたのかも知れません。
子供さんのことも調べましたが、情報を見つけ出すことはできませんでした。
しかし、ペルーでは自分の子供に「AKIRA」と名づける家が増えて行ったそうです。
それほどに、加藤さんはペルーで英雄になられたのですね。
死因は?
チームの選手達やペルーの人々から慕われ、チームの実力はどんどん向上していき、加藤さんは会社を辞めてペルーに永住する決心をします。
しかしその矢先、加藤さんは病に倒れます。
病名はウイルス性急性肝炎でした。
加藤さんは無念の思いで監督を辞任し、それから10年以上にもわたる闘病生活が始まったのでした。
そして1982年3月20日、加藤さんは49歳という若さでこの世を旅立ちました。
死因はウイルス性急性肝炎の悪化により、体が衰弱したためでした。
その年、ペルーで初めて女子バレー世界選手権が開催されることになりました。
それも加藤さんの一途な努力によるものですね。
経歴もリサーチ!
加藤明さんは1933年1月3日、神奈川県小田原市に生まれました。
8歳の時、ローラースケートで遊んでいて腕を骨折し、その時リハビリとして始めたバレーボールに夢中になっていきます。
そして中学校からバレーボール一筋の人生を歩むことになります。
大学は慶応義塾大学法学部に進学し、卒業後は八幡製鉄に入社してバレーボールを続けます。
1960年には八幡製鉄の主将にもなりました。
その年には世界選手権にも出場します。
しかし、その後現役を引退します。
翌年、出身校である慶応義塾大学の監督に就任。
そして慶応義塾大学を、全日本大学選手権で優勝する程のチームにします。
1965年、ペルーの要請によりペルーの女子バレーボール監督に就任。
出場国中最下位だったペルーを1968年のメキシコオリンピックで4位入賞するチームへと成長させます。
加藤さんが亡くなった時、ペルーの新聞は、「ペルーは泣いている」との見出しで、加藤明さんの死去を報道しました。
葬儀には約5万人ものリマ市民が参列し、ベラウンデ大統領が弔辞をよせたのだそうです。
加藤さんが亡くなってから半年後に開催された女子バレー世界選手権で、ペルーはなんと日本に勝利し、銀メダルに輝きました。
リマには加藤さんの記念碑が建てられ、「アキラ・カトウ小・中学校」が設立されました。
加藤さんのお墓は歴代大統領と並んで建てられています。
そして命日には参拝者が「上を向いて歩こう」を歌うのだそうです。
これは、加藤さんが選手たちに歌って聞かせた歌です。