梅屋庄吉って何をした人?生き方は?家系図と生い立ちも調査!

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皆さん、梅屋庄吉という人をご存じでしょうか?

孫文の辛亥革命は皆が知るところですが、実はこの孫文を生涯にわたって助けたのが日本人の梅屋庄吉なのです。

今回は、梅屋庄吉って何をした人なのか、その生き方は、そして家系図と生い立ちについてお伝えします。

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梅屋庄吉って何をした人?

それではまず、梅屋庄吉って何をした人なのかを簡単に紹介しますね。

梅屋庄吉のしたことは次のようなことです。

○長崎生まれの梅屋庄吉は14歳で上海に渡り、その後もアジアの各地に行きました。

○シンガポールで写真技術を学びました。

○26歳の時、香港で写真館「梅屋照相館」の経営を始めました。

○流行し始めた映画で数々のヒットを飛ばし、ビジネスに成功しました。

日活の前身となるM・パテー商会を創業しました。

○帰国し、映画という最先端メディアを流行させました。

○特に経済面で孫文の革命運動の支援を続けました。

○孫文の死後、孫文銅像4基を中国各地に建立しました。

○日中関係の悪化を心配し、当時の外務大臣、広田弘毅に関係改善を訴えました。

梅屋庄吉のしたことは以上のようなことですが、特に注目されるのは、孫文への支援です。

なぜ、中国の孫文の革命を支援することになったのでしょうか?

少しずつ、そのことについて解説していきます。



梅屋庄吉の生き方について

孫文への支援について語るには、梅屋庄吉の生き方に触れる必要があります。

梅屋庄吉の曾孫であり、日比谷松本楼代表取締役副社長の小坂文乃さんは、梅屋庄吉の生き方を「トランスナショナルな生き方」と言っておられます。

「トランスナショナル」というのは一国の利害にとらわれるのでない国境を越えた考え方のことです。

梅屋庄吉は長崎で生まれ育ちました。

長崎は鎖国時代に外国との交流ができる唯一の窓口でした。

そんな中で育った梅屋庄吉の目は世界に開かれ、自分の国だけがよければいいというような狭い考え方は持っていませんでした。

今流行の「○○ファースト」とは違いますね。

「自分は日本人」という考えよりも「アジア人」という自覚が強く、孫文が行おうとしている革命は中国のためというよりもアジア全体をよくするものだと考えました。

梅屋庄吉のそのようなグローバルな生き方が孫文をどこまでも支援することにつながったのです。

またもう一つ大事なことは、梅屋庄吉は見返りを求めない生き方を貫いたことです。

これはなかなかできるものではありません。

私達は人に対して何かをしてあげたら、「私はあの人にこれだけのことをしたのだから、私もよくしてもらえるはず。」と思ってしまいます。

国と国との関係でも、ほとんどはこの考えに支配されています。

しかし、梅屋庄吉は自分が助けたいと思った人や物事に対しては自分の全てを差し出す生き方をする人でした。

梅屋庄吉は清朝を倒すと言う孫文に向かって「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」と約束したのだそうです。



梅屋庄吉の家系図

梅屋庄吉の偉業については、日本ではあまり知られていませんでした。

それは、自分のしたことを隠しておくようにと、梅屋庄吉が子孫に言い残していたからのようです。

しかし、日中関係をよりよいものにしていくために、埋もれていた歴史を伝えなければならないという梅屋庄吉の子孫の方々の思いと努力で孫文と梅屋庄吉のことが世に知られるようになりました。

それで、梅屋庄吉の家系図にも触れておこうと思います。

梅屋庄吉は1868(明治元)年に本田松五郎とノイの子として生まれました。

しかし、遠い親戚の梅屋吉五郎とノブの養子となります。

梅屋庄吉は成人して、梅屋家に養女として来たトクと結婚します。

トクは梅屋庄吉が海外に行って不在の9年間、長崎に残り梅屋商店を守りました。

そして時代が過ぎ、梅屋庄吉の孫娘の小坂あや乃さんは東京、日比谷の有名レストラン日比谷松本楼の三代目社長と結婚されます。

このレストランは孫文と梅屋庄吉が何度も訪れたところなのだそうです。

梅屋庄吉の孫娘の小坂あや乃さんは日中友好のために労され、そしてその娘さん、つまり梅屋庄吉の曾孫である小坂文乃さんも梅屋庄吉のことを伝えておられます。

梅屋庄吉の生い立ち

それでは、梅屋庄吉の生い立ちを見ていきたいと思います。

梅屋庄吉は、1868(明治元)年11月26日、長崎の本田松五郎とノイの間に誕生しました。

しかし、生後間もなく、遠い親戚にあたる梅屋吉五郎とノブの養子になりました。

梅屋吉五郎は貿易業と精米所「梅屋商店」を営んでいましたが、子供がいなかったのです。

子供の頃の梅屋庄吉は大変わんぱくでした。

同時に弱い立場の人を放っておけない性格で、店の売上げを貧しい人に配ったり、ゆすりやたかりをする者達と喧嘩をしたりしたのだそうです。

好奇心旺盛な庄吉は、14歳の時に梅屋商店の持ち船「鶴江丸」で、一人上海へ行きました。

中国に行った庄吉は在住欧米人の中国人に対する横暴な振る舞いを見て憤りを感じます。

このアジア人としての自覚が後に孫文の革命を生涯支援していくことにつながるのです。

梅屋庄吉の生い立ちと孫文との出会いや友情については、長崎市のウェブサイト「ナガジン!」に書いてありますので、そちらをご覧ください。

ナガジン!|特集:発見!長崎の歩き方 「孫文と梅屋庄吉、国境を越えた友情」




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