古関裕而の孫について!息子と娘は?名言も紹介!

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皆さん、こんにちは。

NHK連続テレビ小説「エール」、ご覧になっていますか?

私は毎朝、とても楽しみに見ています。

窪田正孝さん演じる主人公、古山裕一は、あの人気作曲家だった古関裕而(こせき ゆうじ)さんがモデルになっています。

古関裕而さんと言えば、「オリンピック・マーチ」「栄冠は君に輝く」「モスラの歌」などを作られた方ですが、調べてみると、誰もが一度は聞いたことのある、あの曲もこの曲も、古関裕而さん作曲だったのかとびっくりしています。

今回は、そんな古関裕而さんの孫や息子と娘、名言そして妻、経歴とプロフィールについてお伝えします。

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古関裕而の孫について

まず、古関裕而さんのお孫さんについて見ておきたいと思います。

古関裕而さんには幸子さんというお孫さんがおられます。

孫の幸子さんは、古関裕而さんの長男、正裕さんの長女です。

孫の幸子さんは、現在、松本幸子さんと言われ、49歳です。

古関裕而さんは、孫の幸子さんを目の中に入れても痛くないほどにかわいがり、「幸子の子守唄」という曲まで作りました。



古関裕而の息子と娘は?

次に古関裕而さんの息子さんと娘さんについてです。

古関裕而さんには息子さんが一人と娘さんが二人おられます。

息子さんは古関正裕さんと言われます。

息子の正裕さんは1964年に東京都で生まれ、現在74歳です。

正裕さんは成城学園初等科に入学するとピアノを習い始めます。

さすが、音楽科の両親を持つ子供ですよね。

正裕さんは高校に入学するとクラシックではなく、バンド活動を始めました。

「バラ色の雲」や「亜麻色の髪の乙女」などがヒットしたヴィレッジ・シンガーズというグループサウンズでキーボードを担当していましたが、ヴィレッジ・シンガーズが有名になる前に脱退されました。

大学は早稲田大学の理工学部に進学されます。

音楽とは全然違う道だったんですね。

でも大学時代に「Let’s Go」のミュージカル・ディレクターなどもされていました。

正裕さんは大学卒業後、1970年に日本経済新聞に入社されました。

しかし、1998年に新聞社を早期退職されます。

そして子供の頃習っていたピアノをもう一度始められました。

2009年には古関裕而生誕100周年記念のCD全集の企画・監修で、日本レコード大賞企画賞を受賞されました。

2013年には「喜多三」という音楽ユニットを作られ、父親の古関裕而さんの楽曲を中心に演奏活動をされています。

やはり息子として、父親、古関裕而さんを尊敬しておられるのですね。

また、父親の古関裕而さんと母親の金子さんのラブレターをもとに、小説「君はるか 古関裕而と金子(きんこ)の恋」を書かれ、今年2月に出版されました。

古関裕而さんの二人の娘さんについては、長女は古関雅子さんで1932年1月生まれ、二女は古関紀子さんで1934年7月生まれです。



古関裕而の名言

それでは古関裕而さんが残された名言についても見てみたいと思います。

テーマや詩を前にして、その情景を思い浮かべる。すると、音楽がどんどん頭の中に湧いてくる。

古関裕而さんは、これについての曲を作りたい、あるいはこの詩に曲を付けたいと思った時、音楽がどんどん湧き上がってくると言われました。

古関裕而さんは生涯で5,000曲もの曲を作ったと言われていますが、作曲をするのに楽器は使わず、全て頭の中でされたのだそうです。

メロディーだけだったらできそうですけど、オーケストラの曲だったらたくさんの楽器の楽譜を書かないといけないし、歌でも伴奏の楽譜を作らないといけません。

それを全て頭の中でこなすなんて、まさに天才!

頭の中ではたぶん、全ての楽器が一度に鳴って、素晴らしいハーモニーを奏でているのでしょうね。

ベートーヴェンが耳が聞こえなくなってから頭の中だけで、あの有名な交響曲第6番「田園」や第9番を作曲したのと同じですね!

古関裕而さんはご家族にも「目をつぶれば、自然に音楽が湧いてくる。」と言われていました。

古関裕而さんが80代で入院されていた時、長男の正裕さんが「今でも音楽は湧いてくるの?」と聞かれたら「うん」と答えられたそうです。

いつもふる里の吾妻山や信夫山、阿武隈川を思い出して作曲してきました。福島市に生まれ育って本当に良かった。これからも作曲活動を通して、市のため仕事を続けていきます。

福島市は1957年に名誉市民条例を制定したものの、その適応はずっとされないままでした。

しかし1979年、古関裕而さんの作曲生活50周年に合わせて、その功績をたたえるために古関裕而さんを福島市名誉市民第1号に決定しました。

そしてその年の4月に推戴式が行われ、古関裕而さんは妻の金子さんとともに推戴式に参加されました。

上の名言は推戴式での福島市長の式辞に応えて古関裕而さんが語られた言葉です。

この名言からは、自分の功績を誇ることをせず、優しさと謙虚さに溢れた古関裕而さんの人柄を感じ取ることができますね。

古関裕而の妻について

古関裕而さんの妻は小関金子(こせき きんこ)さんと言われます。

妻の金子さんは声楽家であり、また詩人でもありました。

愛知県豊橋市の馬具商人の家に生まれ育った金子さんは、歌が好きでオペラ歌手を目指していました。

1928年に豊橋高等女学校(現在の豊橋東高等学校)を卒業した後は「女人芸術」という女性の文芸・総合雑誌に参加し意欲的に活動していました。

金子さんは、1930年にまだ無名だった古関裕而さんが国際作曲コンクールで入賞したことを知って、すぐ古関裕而さんに手紙を書きます。

これが二人の恋の始まりです。

古関裕而さんも後に妻となる金子さんも、まだ会ったこともない相手に夢中になり、恋に落ちるのです。

ちょっと信じられませんね。まるで小説の中のお話のようです。

文通で愛を育てた3ヶ月の間に、古関裕而さんは金子さんの詩「きみ恋し」の作曲の他、オーケストラ曲を13曲、室内楽3曲、歌謡曲を10曲も作りました。

金子さんへの愛で、気分も能力もハイになっていたのでしょうね。

古関裕而さんはラブレターの終わりに「そのすべてを『私のクララ』であるあなたに捧げます」と書いているのだそう。

当時の日本男子としては考えられないことですよね。

そしてその年の6月、古関裕而さんは金子さんに会いに豊橋に行き、そのまま二人で福島に行ってゴールイン!

何と古関裕而さん20歳、金子さん18歳の時です。

その秋には、古関裕而さんは日本コロムビアの専属作曲家となり、二人は上京し世田谷で暮らし始めます。

近くに帝国音楽学校があったので、金子さんは声楽部に編入し、本格的に声楽の勉強を始めました。

すると金子さんの声楽の才能は抜きん出ていて、あの中山晋平も絶賛したのだそうです。

でも結婚して2年後子供に恵まれ、育児のために音楽学校を中退しました。

その後、金子さんは育児や家事をしながらよく歌っていたそうです。

古関裕而さんは妻を心から愛しておられ、妻について、自伝の中でこう言われています。

妻は次第に家庭的に忙しくなり、残念ながら歌を歌う機会を逸してしまうが、家庭を守りながらも、私の仕事のよき理解者であり、よきアドバイザーであった。

そんな金子さんですが、性格がはっきりしている方で、孫が生まれると孫の世話を全力で頑張り、お嫁さんをすごい剣幕で怒ったりしたのだそうです。

孫の幸子さんには「私とママとどっちが好き?」などと聞いたりして、孫を困らせたそう。

思ったことはそのまま口にする子供のような人で、夫、古関裕而さんのことも、誰にでも「うちの人は天才ですから。」と平気で言っていたのだそうです。

また、古関裕而さんが若い女性歌手の名付け親になったことで激怒し、自分から夫に送った手紙を焼いてしまい、夫を家から追い出したのだとか。

それほど、夫、古関裕而さんを一途に愛しておられたのですね。

そんな妻、金子さんですが、乳がんが全身に転移し、1980年、68歳で亡くなられました。

大切な妻をなくし、古関裕而さんは大変力を落とされたようです。

古関裕而の経歴とプロフィール

それでは古関裕而さんの経歴とプロフィールを見ていきましょう。

経歴

古関裕而さんは1909(明治42)年8月11日、福島県福島市大町に生まれました。

本名は古關勇治さんです。

古関裕而さんの実家は「喜多三(きたさん)」という呉服店を営んでいて、そこの長男として生まれました。

古関裕而さんは1916年、福島県師範学校附属小学校(現在の福島大学附属小学校)に入学します。

古関裕而さんの家には当時珍しい蓄音機があり、幼い頃からレコードを聴いて育ち、加えて小学校の担任の先生が音楽指導に熱心な人だったので、古関裕而さんは10歳の頃には楽譜が読めるようになりました。

古関裕而さんは小学生の頃から作曲に夢中になり、同級生達から作曲を依頼されるようになりました。

古関裕而さんは1922年に旧制福島商業学校(現在の福島商業高等学校)に入学します。

古関裕而さんは商業の勉強より作曲に夢中で、独学で作曲法の勉強を続けました。

高校時代に初めて自分の曲を大勢で演奏し、披露する機会もありました。

しかしそういう中で、実家の呉服店が倒産します。

古関裕而さんは高校を卒業する頃に、日本有数のハーモニカバンドだった福島ハーモニカーソサエティーに入団し、作曲や編曲や指揮を担当しました。

また福島の音楽愛好者で作る「火の鳥の会」主催のレコードコンサートでリムスキー=コルサコフやストラヴィンスキー、ドビュッシーなど近代ロシアやフランスの音楽家達の曲に出会って衝撃を受けました。

1928年、商業学校を卒業した古関裕而さんは叔父が頭取を務める川俣銀行(現在の東邦銀行川俣支店)に勤務することになります。

またこの頃、リムスキー=コルサコフの弟子、金須嘉之進(きす よしのしん)に師事することになりました。

1929年、古関裕而さんはロンドンの作曲コンクールに管弦楽のための舞踊組曲「竹取物語」を応募し、見事入賞しました。

国際的な作曲コンクールに日本人が入賞するのは初めてのことで、しかも最年少での入賞でした。

このことを新聞で知った内山金子さんと文通が始まり、上述したように結婚に至るのです。

古関裕而さん20歳の時です。

古関裕而さんは憧れていた山田耕筰に手紙を書いたことがきっかけで、山田耕筰が顧問を務めていた日本コロムビアに作曲家として入社が決まり、夫婦で上京しました。

古関裕而さんは実家を経済的に支えなければいけなかったので、本当にやりたいクラシックから離れ、大衆の喜ぶたくさんの曲を作ることになります。

1935年、古関裕而さんが26歳の時に作曲した「船頭可愛や」は大ヒットし、古関裕而さんの名前は広く知られるようになります。

戦時中は数々の戦時歌謡で人々の心を慰め、戦後は音楽で日本を明るくするために作曲を続けました。

「長崎の鐘」やラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」など、今の中年以上なら誰でも聞いたことがありますよね。

そして1964年、東京オリンピックの開会式の「オリンピック・マーチ」、NHKスポーツ中継テーマ「スポーツショー行進曲」、高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの球団歌「六甲おろし」など広く親しまれるマーチや応援歌を数多く作り、「和製スーザ」と言われました。

スーザは「雷神」や「ワシントン・ポスト」、「星条旗よ永遠なれ」などを作曲し「マーチ王」と呼ばれるアメリカの作曲家です。

その他、「君の名は」「高原列車は行く」など長く大衆に愛される曲を生み出しました。

また劇作家の菊田一夫さんとのコンビで数多くのラジオドラマやテレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルなどもヒットさせました。

その中でも森光子さん主演の「放浪記」は実に2009年まで続きました。

それからテレビで「オールスター家族対抗歌合戦」というのがあっていましたが、その審査員もされていました。

テレビに映る古関裕而さんの優しそうなお顔はよく覚えています。

古関裕而さんは1979年に福島市名誉市民第1号に選ばれました。

1988年には福島市古関裕而記念館が建てられましたが、その頃、古関裕而さんは入院されていたので、記念館に行くことはできませんでした。

古関裕而はこのようにたくさんの功績を残し、1989年、80歳を迎えた直後に脳梗塞で亡くなりました。

2009年4月、古関裕而さん生誕100年を記念してJR福島駅の発車メロディーとして「高原列車は行く」や「栄冠は君に輝く」が流れるようになりました。

同年8月には福島駅東口駅前広場にモニュメントが設置され、「栄冠は君に輝く」や「長崎の鐘」などのメロディーを聞くことができます。

そして2020年春、古関裕而さんをモデルにした連続テレビ小説「エール」が、窪田正孝さん主演で始まりました。

プロフィール

以下に古関裕而さんのプロフィールをまとめておきます。

名前 古関裕而(こせき ゆうじ)

本名 古關勇治

生年月日 1909(明治42)年8月11日

出身地 福島県福島市大町

1922年、旧制福島商業学校(現在の福島商業高等学校)に入学

1928年、川俣銀行(現在の東邦銀行川俣支店)に入社

1929年、ロンドンのチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールで入賞

1930年、結婚

同年、日本コロムビア専属作曲家に

1935年、「船頭可愛や」が大ヒット

1964年、東京オリンピック開会式の「オリンピック・マーチ」を作曲

1969年、紫綬褒章を受章

1979年、勲三等瑞宝章を受章

同年、福島市名誉市民第1号に

1989年、80歳で死去

まとめ

今回は、生涯で5千曲もの作曲をし、現在でも広く人々に愛される曲を残された古関裕而さんの孫と息子と娘、名言そして妻、経歴とプロフィールについてお伝えしました。

本当に素晴らしい方が日本におられたと思います。

古関裕而さんの数々の名曲は、これからも日本人の心の支えとなってくれることでしょう。

朝ドラ「エール」のこれからの展開も楽しみです!



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