野村俊夫の妻と子供について!母と弟は?経歴も解説!

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皆さん、朝ドラ「エール」見られてますか?

もうすぐ終わりますが、毎回、本当に感動的なお話でした。

その中でも、今まで自分の生い立ちや家族を明かせなかった村野鉄男が、母校の校歌の披露会で自分のことを語り、子供達を励ます場面には、温かい涙が溢れました。

それで私は、村野鉄男のモデルとなった作詞家、野村俊夫さんのことを知りたいと思い、その家族や生涯について調べてみました。

今回は福島出身の作詞家、野村俊夫さんの妻と子供、母、弟そして経歴とプロフィールに迫ります。

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野村俊夫の妻について

まず、野村俊夫さんの妻について見ておきたいと思います。

野村俊夫さんの妻は野村ハツさんと言われます。

妻の野村ハツさんは、野村俊夫さんが福島民友新聞社で働いていた頃に交際をしていた女性です。

野村俊夫さんは1931(昭和6)年に上京しますが、4年後の1935年にハツさんを東京に呼び寄せて結婚しました。

妻のハツさんは、あまり外出が好きではなく、夫婦で出かけることはほとんどなかったようです。

また妻の実家は伊達市富成にあり、戦時中、野村俊夫の子ども達は実家の近くに疎開していたそうです。



野村俊夫の子供は?

野村俊夫さんの子供は3人おられます。

長女、次女、長男の順です。

野村俊夫さんの息子さんのお名前は鈴木克東さんと言われます。

ちょうど1年前の2019年11月21日に、野村俊夫さんが勤めていた福島民友新聞に、野村俊夫生誕115年・古関裕而生誕110年を記念するインタビュー記事が載りましたが、その中で息子の鈴木克東さんは、父親の野村俊夫さんのことを、「子どもたちを大事にしてくれた父でした。」と話されています。

野村俊夫さんは、子ども達が小さい頃から温泉などに連れて行き、家族で楽しく過ごしたそうです。

また息子さんは末っ子の長男ということで、とても大事にされ、怒られた記憶がないそうです。

しかし、「湯の町エレジー」が流行った頃、お姉さんは学校で「エレジー」と呼ばれていじめられたことがあったそう。

息子の鈴木克東さんは、そんなことはなかったと言われています。

「野村」はペンネームなので、野村俊夫さんの息子だということが分からなかったそうです。

野村俊夫さんは、家では仕事の話をすることはなく、作詞も子供達が寝静まってからしていました。

また福島出身の信夫山という力士を子供達と一緒に応援していました。

野球は巨人が大好きで、負けると機嫌が悪くなっていたそう。(笑)



野村俊夫の母と弟について

野村俊夫さんの母親は鈴木アキさんと言われます。

母親のアキさんは、男6人、女5人の実に11人の子供を産み育てました。

野村俊夫さんは上から4番目の三男でした。

ですから、野村俊夫さんには弟が3人いることになります。

その弟の一人、五男の鈴木忠治郎さんは、1942年10月24日、ガダルカナル島で戦死されました。

28歳という若さでした。

野村俊夫さんはこの弟さんを思って「弟よ」という詩を書きました。

また野村俊夫さんの戦後の代表作で、島倉千代子さんが歌い大ヒットした「東京だョおっ母さん」も、実は、弟、忠治郎さんへの哀悼の思いが込められています。

弟の忠治郎さんが戦死した時、母親のアキさんが東京にいる娘達のもとにやって来ました。

「東京だョおっ母さん」には、その時の様子が描かれています。

娘達が母親を東京観光に連れて行き、そして靖国神社を象徴する九段坂に連れてきて、戦死した息子に逢わせるというものです。

そう思って歌詞を読むと、野村俊夫さんの弟や母親に対する深い思いが溢れていることが分かりますね。

野村俊夫の経歴とプロフィール

それでは、野村俊夫さんの経歴とプロフィールを見ていきましょう。

経歴

子供時代

野村俊夫さんは1904(明治37)年11月21日、福島県福島市大町に生まれました。

本名は鈴木喜八と言い、父親、鈴木忠八さんは「魚忠」という魚屋をしていました。

子供の頃の野村俊夫さんはガキ大将で、近所に住む5歳下の古関裕而さんとよく遊んでいました。

実家の魚屋は大変繁盛していましたが、父親が相場に手を出して失敗し、引っ越しせざるを得なくなりました。

野村俊夫さんは福島市立第一小学校を卒業後、福島商業学校へ進学しましたが、病気や家の事情で中退し、角田林兵衛という富豪の家に奉公に行くことになります。

野村俊夫さんは15歳の時、奉公をしながら新聞や雑誌に投稿を始め、「野村俊夫」というペンネームを使うようになりました。

ペンネームを使ったのは当時、芸能や文学をする人たちは蔑まれていたので本名を隠すためと父親に見つからないためでした。

しかし、奉公先で布団をかぶって勉強しているのを見つけられ、実家に返されます。

実家に帰ってからは3年程、父親を手伝いながら勉強を続けました。

新聞記者時代

野村俊夫さんは、1924年、20歳の時に福島民友新聞社に入社します。

最初は編集部の手伝いをしていましたが、その後社会部の記者になり、忙しい中、文芸欄も担当しました。

そして自身も詩誌「北方詩人」に投稿を続けました。

社会部記者として走り回りながら、文学への情熱も失わないって、野村俊夫さんって、やはりすごい人だったんですね。

野村俊夫さんは再開した古関裕而さんの勧めで、1931年、福島民友新聞社を退社し、上京します。

作詞家として

上京したものの、当時の東京は昭和恐慌と呼ばれる大不況の中で、野村俊夫さんはおでん屋の他、様々な仕事をして食いつなぎました。

しかし、野村俊夫さんが作詞した「福島行進曲」に古関裕而さんが曲をつけ、二人はレコードデビューを果たしました。

そして野村俊夫さんは、フリーの作詞家として本格的に活動を始めます。

1938(昭和13)年、服部逸郎作曲で東海林太郎が歌った「忠治子守唄」が初ヒット。

同年、「上海夜曲」もヒットし、野村俊夫さんはコロムビア専属の作詞家になりました。

しかし、戦争に協力的ではない野村俊夫さんの歌は、ことごとく検閲にひっかかるようになり、レコードの仕事ができなくなりました。

既に結婚し子供もいた野村俊夫さんは、生活のために戦時小唄の「ほんとにほんとに御苦労ね」を作詞しました。

これがヒットし、さらに翌年、映画「暁に祈る」の主題歌で、古関裕而さんが作曲し伊藤久男さんが歌う「暁に祈る」が大ヒット。

この頃から野村俊夫さん、古関裕而さん、歌手の伊藤久男さんの3人は「コロムビア三羽ガラス」と呼ばれるようになります。

「暁に祈る」の冒頭の「ああ」は、担当の軍人が何度も歌詞を書き直しように迫るので、思わず出た溜息なのだそうです・・・。

1948年、古賀政男作曲、近江俊郎歌唱の「湯の町エレジー」が大ヒットします。

「湯の町エレジー」には、お酒が大好きだった野村俊夫さんの次のようなエピソードがあります。

古関裕而さんはお酒が全くだめだったので、野村俊夫さんは伊藤久男さんや作曲家の服部逸郎と飲み歩いていました。

ある日、3人で熱海に行き、それぞれが別の誰かの財布を当てにして豪遊しました。

ところが、誰も持ち合わせがなくて困っていたら、野村俊夫がひいきにしていた芸者さんが、指輪などを売ってお金を工面し、3人を助けてくれたのだそうです。

野村俊夫さんは、この時のことをもとに「湯の町エレジー」を作りました。

日本音楽著作権協会の理事

野村俊夫さんは1951年から1965年まで、日本音楽著作権協会の理事も務め、日本の音楽の発展と音楽家の権利拡大に貢献しました。

著作権協会の理事をしながらも古関裕而さんや古賀政男さん、船村徹さんなどとのコンビで数多くの曲を作り、島倉千代子さんや美空ひばりさん、村田英雄さんなど大物歌手の歌でヒットしました。

ところが、1964年、日本音楽著作権協会で「黒い霧事件」が発生します。

これは1959年から1964年までの間、著作権使用料の中の約1億円を不正に処理し、役員への裏給与や遊行費などに充てたと言うものです。

野村俊夫さんはその責任を取って、1965年に常務理事を辞任することになりました。

晩年

野村俊夫さんは、著作権協会の常務理事を退いた翌年、十二指腸潰瘍の手術を受けました。

ところが手術の約1ヶ月後、腸閉塞により、62歳という若さで死去されました。

1966年10月27日のことです。

野村俊夫さんは福島をテーマとした歌詞や昭和歌謡、福島県の学校の校歌など、生涯で3000以上もの作詞をされました。

野村俊夫さんの墓石には、作詞家、藤田まさとさんの筆跡で「湯の町エレジー」の歌詞が刻まれました。

また7回忌に当たる1973年10月27日、200人余りの協力により、詩碑が建立されました。

その詩碑には当時の福島県知事により「暁に祈る」が刻まれました。

除幕式では、古関裕而指揮で「暁に祈る」と「湯のまちエレジー」が歌われたということです。

そして今年、2020年9月、日本コロムビアから32年ぶりに野村俊夫作品集が発売されました。

プロフィール

以下に野村俊夫さんのプロフィールをまとめておきます。

本名 鈴木喜八

生年月日 1904(明治37)年11月21日

出身地 福島県福島市大町

福島市立第一小学校卒業

福島商業学校中退

1924年 福島民友新聞社に入社

1931年 「福島行進曲」でレコードデビュー

1935年 結婚

1938年 コロムビア専属の作詞家に

1939年 「ほんとにほんとに御苦労ね」発売

1940年 「暁に祈る」発売

1948年 「湯の町エレジー」発売

1951年  日本著作権協会理事に就任

1957年 「東京だョおっ母さん」発売

1966年10月27日 死去 享年62歳

まとめ

今回は、福島県出身の大作詞家、野村俊夫さんの妻と子供、母や弟そして経歴とプロフィールについてお伝えしました。

いかがでしたか?

今年、朝ドラ「エール」がなかったら、古関裕而さんとともに、野村俊夫さんというこんなに偉大な作詞家が日本の音楽を引っ張って来られたことを知らないままでした。

野村俊夫さんのことを知ることができて、本当によかったです。

「エール」はもうすぐ終わってしまいますが、最後まで楽しみですね。



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