逢坂冬馬さんの「同志少女よ、敵を撃て」が2022年本屋大賞を受賞
しました!
「同志少女よ、敵を撃て」は衝撃的な物語でした。
今、この本が本屋大賞を受賞したのは必然ではなかったかと思います。
これは逢坂冬馬さんのデビュー作であり、アガサ・クリスティー賞大賞を受賞した作品です。
しかも選考委員の4人全員が最高点をつけるという史上初のことが起こりました。
今回は、そんな「同志少女よ、敵を撃て」のあらすじとネタバレ、書評、そして私の感想もお伝えします。
作者の逢坂冬馬さんについてはこちらをどうぞ。
「同志少女よ、敵を撃て」のあらすじと内容
まず、「同志少女よ、敵を撃て」のあらすじと内容についてお伝えします。
「同志少女よ、敵を撃て」の主人公セラフィマは、モスクワ近郊のイワノフスカヤ村という小さな村で暮らす16歳の少女でした。
セラフィマは母親とともに猟をして、村の安全と村人の食卓に貢献していました。
またセラフィマは高校でドイツ語を習い、将来は外交官としてドイツとソ連の仲をよくしたいという夢を抱いていました。
しかし、1942年、ドイツ軍により母親も村人達も惨殺されてしまいます。
そこに現れた赤軍の女性兵士イリーナは、セラフィマの母親の遺体を家ごと焼いてしまったのです。
そしてセラフィマに問います。
「戦いたいか、死にたいか」
セラフィマは、母親を殺したドイツ兵とその遺体を焼き払ったイリーナに復讐するために、イリーナのもとで狙撃兵になるための訓練を受けることになります。
同じような境遇の女性達とともに、熾烈な訓練に耐え、彼女たちは実戦に出て行くのでした。
「同志少女よ、敵を撃て」のネタバレ!
こちらは「同志少女よ、敵を撃て」のネタバレになりますが、これから読む人のためにギリギリでやめています。(汗)
それでも読みたくない人は、ここを飛ばしてくださいね。
幼なじみミハイルとの再会
セラフィマが少女時代を過ごしたイワノフスカヤ村には幼なじみのミハイルがいました。
ミハイルはとても優しく品性のある少年でした。
二人はとても仲がよく、村の大人達は二人は将来結婚すると決めつけていました。
ミハイルは戦争が始まると志願兵となり戦地へ赴きました。
それで、イワノフスカヤ村の住人で、ドイツ兵に惨殺されなかったのはセラフィマとミハイルの二人だけだったのです。
セラフィマが狙撃兵としての訓練を受け、立派な兵士として多くの戦果を出すようになった頃、彼女はミハイルと再会します。
ミハイルは砲兵少尉として活躍し、昔と同じ柔和な雰囲気を持っていました。
二人は偶然の再会を驚き、そして喜びます。
つかの間の再開の最後の会話はこうでした。
「ミーシカ。あなたは他の兵士と同じ場面になったら、例えば上官に言われたり仲間にはやし立てられたら、それでも女性を暴行しない?」「もちろんだとも」ミハイルは即座に答えた。「そんなことをするぐらいなら死んだ方がマシさ」
しかし、後に二人はもう一度会うのです。
その時のことは・・・・言えません。
敵とは誰のことか?
このタイトル「同志少女よ、敵を撃て」の「敵」とは誰なのでしょうか?
読者は、ソ連軍の狙撃兵セラフィマの敵はドイツ軍だと思い込み、読み進めます。
しかし、ドイツ軍が降伏し、この戦争が終わりに近づいた頃、私達は「同志少女よ、敵を撃て」という言葉を聞くことになります。
さて、セラフィマ達、狙撃兵は何度も「何のために戦うのか?」と問われ、それぞれの答えを持っていました。
セラフィマは仇を討ち、女性を守るために。
戦争で我が子を殺されたヤーナは子供を守るために。
セラフィマはその言葉を聞き、女性を守るために銃弾を放つのでした。
懐かしいカチューシャの歌を歌いながら・・・。
イリーナの正体は?
母親の遺体を焼き、自分を殺し屋にした冷酷で無慈悲なイリーナ。
セラフィマはイリーナを殺すために、地獄のような日々を絶えてきました。
しかし、イリーナは伝染病を防ぐために遺体と村を焼き払ったこと、そして投げ捨てられたと思っていた、たった一枚の両親の写真をずっと持っていたことを後になって知ります。
イリーナとは一体何者だったのでしょうか?
張り巡らされた伏線とその回収
この作品にはたくさんの伏線が張り巡らされていて、物語が終わりに近づくにつれ、その一つひとつが回収されていきます。
例えば、セラフィマの母親を撃ったイェーガー、セラフィマの幼なじみミハイル、そしてミハイルの部下であったドミートリー、看護師のターニャとセラフィマが撃った少年ヨハン、敵兵イェーガーと深い関係になったサンドラ・・・。
登場した人物は皆、忘れられることなく、きちんと回収されていきます。
「同志少女よ、敵を撃て」の書評を紹介
「同志少女よ、敵を撃て」は、アガサ・クリスティー賞史上初めて、選考委員全員が最高点を付けた作品です。
それでは、アガサ・クリスティー賞の選考委員5人による書評の一部を紹介します。
以下の書評を読むと、選考委員お一人おひとりがいかにこの作品を高く評価し、またご自分も魅了されたかがよく分かります。
これは、「同志少女よ、敵を撃て」の単行本の終わりに掲載された「第十一回アガサ・クリスティー賞選評」より引用させていただいたものです。
背景は独ソ戦、スターリングラード攻防戦と、要塞都市ケーニヒスベルクの戦いを描くものだが、女性狙撃手という実在した人物を登場させて、壮大な歴史を背景に、個的なドラマを作り上げるという、とても新人の作品とは思えない完成度に感服。
(北上次郎さんの選評より抜粋)
狩りの名手の少女セラフィマ。彼女の個人的な復讐心に始まった物語は波乱のなかで、隊員同士のシスターフッドも描きつつ、戦場になだれこみ、壮大な展開を見せます。胸アツ。
(鴻巣友季子さんの選評より抜粋)
白眉は大詰めのケーニヒスベルク戦で、入念な布石の下に繰り広げられるラストバトルの衝撃的な結末にこの物語のすべてが詰まっている。文句なしの5点満点、アガサ・クリスティー賞の名にふさわしい傑作だと思う。
(法月綸太郎さんの選評より抜粋)
ソ連は参戦国の中で唯一、女性兵士が従軍した国である。その女性兵士の視点から、スターリングラード攻防戦をはじめとする苛烈を極めた戦闘と、仲間のスナイパーたちそれぞれの人間ドラマが描かれる。女性が戦場で戦い、生き抜くことの意味を突き詰めた、まったく新しい戦争冒険小説を読むことができた。多くの方に読んでいただきたい。
(清水直樹さんの選評より抜粋)
「同志少女よ、敵を撃て」を読んだ感想
日本人の、それも男性が、狙撃兵にさせられ、戦場で生きる女性達を描く。
事実をもとに考えられた、死と向かい合わせの戦い、そしてその心、彼女達の会話を。
著者、逢坂冬馬さんが独ソ戦について研究し、想像し、ここまでのリアリティーを表現されたことに、まず脱帽します。
物語を読んでいる間は自分もその戦場にいて、彼女達の抱える銃のスコープの先に、敵や風景が見えていました。
逢坂冬馬さんは、暴力が嫌いだと語られていましたが、その逢坂さんがここまでの血なまぐさい描写をする、その気持ちを考えました。
書きながら一人苦しまれたのではないかと思います。
平和な村で、村人のために猟をしていた純情な少女は、苦しい訓練を経て、今までとは全く違う狙撃兵になっていきます。
スコープを覗いて敵の位置を瞬時に判断し、的を射る。
そうやって次々と敵を倒していくセラフィマ。
一番恐ろしかったのは、彼女が笑いながら敵を倒しているところです。
ククク・・・・・
自然と喉が鳴り、セラフィマは笑っている自分に気付いた。
そして、すぐに移動しなければいけないのに、ゲームのように1ヶ所に留まって人殺しを繰り返そうとします。
戦争は人をここまでに変えていくものなのだと思った時、背筋がぞっとしました。
また、逢坂冬馬さんは戦時中の兵士の女性への性暴力について書いておられます。
終わりの方には、こう書かれています。
そしてソ連でもドイツでも、戦時性犯罪の被害者たちは、口をつぐんだ。それは女性たちの被った多大な精神的苦痛と、性犯罪の被害者が被害のありようを語ることに嫌悪を覚える、それぞれ社会の要請が合成された結果であった。まるで交換条件が成立したかのように、ソ連におけるドイツ国防軍の女性への性暴力と、ソ連軍によるドイツ人への性暴力は、互いが口をつぐみ、互いを責めもしなくなった。
性暴力は犯罪だという認識はあっても、男性社会の中で、結局、それは大きな問題として扱われない、そこに女性蔑視があり、女性への冒涜があることを示しておられます。
逢坂さんは兵士の戦後についても触れておられます。
特に女性狙撃兵は、国のために命をかけて戦ったのに、戦争が終わったら「魔女」、「人食い」と言われ恐れられる。
戦争が終わっても、彼女達には以前のような平和な世界は戻って来ないのです。
でも、大きな戦果を上げ英雄的存在になったリュドミラは、戦後は愛する人か生きがいを持てと言いました。
戦後30数年が過ぎ、セラフィマはやっとこの2つとも手に入れたようです。
愛する人とともに生きること(異性ではなくても)、そして自分の経験した事実をこれからの人に語ること。
最後に人としての希望が見えました。
また、「ネタバレ」のところでも触れましたが、多くの伏線とその回収の見事さが、さすがアガサ・クリスティー賞大賞作品だと納得させられました。
【追記】
この感想を書いた時は、まさかロシアのウクライナ侵攻が起きるとは夢にも思っていませんでした。
逢坂冬馬さんの本屋大賞受賞の言葉も、心から、この意味のない戦争の終息を願うものでした。