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井上勝の生い立ちと功績!妻と子孫は?銅像や小岩井農場も解説!

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さん、こんにちは。

我が家は、遠くから孫達が遊びに来ていて、急に賑やかになりました。

3歳になったばかりの男の子は、とにかく鉄道が大好きで、誕生プレゼントを買ってやろうとしたら、すぐに機関車のおもちゃを見つけて持ってきました。

男の子は特に、鉄道に夢を感じるようですね。

さて、「日本の鉄道の父」と呼ばれる井上勝(いのうえ まさる)をご存知でしょうか?

井上勝はその生涯を日本の鉄道の普及に捧げた人です。

私は井上勝について調べてみて、この人がいたから、今の日本の鉄道、そして日本人のくらしがあるのだなあと深く感じました。

また、とてもびっくりしたのは、井上勝は私たちがよく知っている、あの小岩井農場を作った方だったのです!

どうして鉄道の父、井上勝が農場を作ることになったのでしょうか?

そして「小岩井」の名前の由来とは?

今回は井上勝の生い立ちと功績、妻と子孫、銅像そして小岩井農場についても探ってみました。



井上勝の生い立ち

それではまず、井上勝の生い立ちについてです。

井上勝は1843(天保14)年、長州(今の山口県)に藩士である父の井上勝行と母、久里子の3男として生まれます。

生まれた時は卯八と名付けられました。

母は卯八が1歳の時に亡くなってしまいます。

兄は父の後を継ぎ、弟二人はそれぞれ別の家に養子に出されますが、3人とも卯八より早くに亡くなります。

卯八(井上勝)は子供の頃から強情で、自分の決めたことは曲げない性格でした。

1848(天保19)年、野村作兵衛の養子となり野村弥吉と改名します。

長州藩の藩校である明倫館で勉強し、その後は養父の影響で西洋学を学ぼうと志します。

1853(嘉永6)年、黒船が来航し、江戸幕府から長州藩に相模警備の命令が出されます。

1855(安政2)年、父と共に赴任した宮田(現在の神奈川県横須賀市)で伊藤博文と出会い、親交を持つようになります。

1858年(安政5)年には長崎に留学。

その翌年には藩命によりで江戸の蕃書調所に入学し、航海術を学びます。

その後、英語を取得し、外国留学の夢を持つようになります。

1863(文久3年)には長州藩が購入した船、癸亥丸の船長に任命されます。

その年の5月、長州藩からの任を受けて井上馨、山尾庸三、伊藤博文、遠藤謹助とともにイギリスに秘密留学し、鉱山技術や鉄道技術などを学びます。

この5人は後に長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれるようになり、ロンドン大学にはこの5人の顕彰碑が建てられ、2003年には山口市にも顕彰碑が建てられました。

1868年(明治元年)、帰国した後、実家と復縁して、父の名前、勝行から1字取り、井上勝と改名します。

翌年、明治政府の大蔵省造幣頭兼民部省鉱山正となり、先に大蔵省に入っていた伊藤博文のもとで、近代事業に携わることになりました。

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井上勝の功績

次に井上勝の功績についてまとめました。

1871(明治4)年、井上勝は鉱山頭件鉄道頭に任命されました。

そして、測量や鉄道建設に反対する人々の説得などを続け、1872(明治5)年9月12日に、新橋駅~横浜駅に日本で初めての鉄道が敷かれました。距離は約29㎞でした。

井上勝は「現場第一主義」をモットーとし、自ら先頭に立って動く人でした。

初めての列車に乗車された天皇陛下からは「鉄道を全国に広げて欲しい。」とのお言葉がありました。

それで、井上勝は鉄道を全国に広げるため生涯を捧げることになるのでした。

1874(明治7)年には、大阪~神戸が開通。1877(明治10)年には京都にまで延ばされました。

この頃になると、私鉄も全国に広がっていきました。

1885(明治18)年、鉄道局長官に就任した井上勝は伊藤博文首相を説得して、建設中の鉄道を東海道経由に変更し、1889(明治22)年に新橋~神戸間の東海道線を開通させました。

鉄道局長官を退職後は汽車製造合資会社を設立し、7900両を超える機関車や客貨車の製造に力を尽くしました。

これらの功績により、1906(明治39)年、勲一等旭日大綬章を受賞しました。

1909(明治42)年には帝国鉄道協会会長に就任。

翌年、視察中のロンドンで病死するまで、井上勝はその生涯を鉄道の発展に捧げました。

妻と子孫は?

井上勝の妻は宇佐子と言い、井上勝彦の養女でした。

井上勝は妻との間に1男3女を儲けました。

長男、亥六は陸軍工兵大尉になりましたが、31歳でその生涯を閉じます。

長女、卯女子は 森村財閥を創設した森村市左衛門の次男、森村開作と結婚しました。

次女、千八重子は海軍軍人の井上勝純と結婚

三女、辰子は 政治家松方正義の十男、松方義輔と結婚しました。

井上勝は鉄道建設の現場に行くことが多く、家にはあまりいなかったので、子供達の父への印象はあまりいいものではなかったようです。

しかし井上勝は家族を愛し、また鉄道建設に携わる人夫達を大切にする人だったそうです。

また地元山口県には「ノムラン会」という、井上勝やその縁を大切にする人々の集まりがあり、井上勝没後99年の2009年には、「井上勝を顕彰する会」が開催されました。

これに、子孫で曾孫の井上勝重さんも出席され、大変喜んでおられました。

ちなみに「ノムラン」というのは井上勝のあだ名で、お酒が好きで飲むとすぐ人に食ってかかっていたので、「呑乱(ノムラン)」と呼ばれていたのだそうです。





銅像について

井上勝の銅像は東京と故郷の山口県萩市に建てられています。

東京駅丸の内側の駅前広場にある銅像は1914年に設置されましたが、戦時中の金属供出のために一度は撤去されました。

しかし井上勝没後50年の1959年に再建されます。

1987年からは駅正面から皇居を向く形で建っていましたが、2007年の東京駅復元工事に伴い、銅像は一時撤去されました。

そして、2017年12月7日に、この銅像が駅前広場の北西端から駅舎中央を向く形で再設置されました

故郷の萩市の萩駅前には、シャベルに足を掛けた姿の高さ1.8メートルの銅像があります。

これは2016年10月14日に完成しました。

小岩井農場について

小岩井農場は1891(明治24)年1月1日に開設されました。

「小岩井」という名前は、日本鉄道会社副社長であった小野義眞と三菱の創業者、岩崎彌太郎の弟で三菱社社長であった岩崎彌之助それに井上勝の名前の最初の一文字ずつを取ってつくられたものです。

井上勝は長年の鉄道建設により、日本の美しい田園風景を壊してしまったことを悔やんでおり、それを少しでも埋め合わせするために、岩手南麓の荒れた土地を開墾して小岩井農場を作ったのだそうです。

小野義眞と岩崎彌之助はこの井上勝の志に賛同し、資金面での協力をしました。

小岩井農場は、このように、井上勝の日本を思う気持ちから生まれたのです。

まとめ

今回は「日本の鉄道の父」、井上勝に焦点を当ててみました。

いかがだったでしょうか?

これから、鉄道を利用する時は、井上勝の情熱と努力に思いを馳せてみたいものですね。

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