皆
さん、原田マハさんという小説家をご存知ですか?
作品が映画やドラマにもなった人気の作家さんですが、美術関係のお仕事から小説家になるというユニークな経歴をお持ちの方です。
この原田マハさんの作品は一昨年、昨年と本屋大賞にもノミネートされています。
そして今年、「美しき愚かものたちのタブロー」が第161回直木賞候補になりました。
今回は、そんな原田マハさんの経歴とプロフィール、本名、そして夫や兄についてお伝えしていきます。
原田マハの経歴とプロフィールについて!
原田マハさんは1962年7月14日、東京都小平市に生まれました。
幼い頃から絵を描くことと本を読むことが大好きでした。
お気に入りの本は「ドリトル先生」と「シートン動物記」。好きな画家はピカソですが、自分のほうが上手だと思っていたそうです(笑)
小学4年生の時、父親が単身赴任をされていた岡山県にある大原美術館へ行き、ピカソの絵と対面。
以来、ピカソは原田マハさんのライバルであり、先生になったのだそうです。
小学6年生の時、父親がおられる岡山に引っ越します。
岡山市立三門小学校、市立石井中学校を経て、私立山陽女子高校に入学。
高校時代はフォークバンドを作ったり、恋愛小説や少女マンガを書いたりと自由に過ごしていたそうです。
1981年、関西学院大学文学部に入学します。
最初はドイツ文学科に入りましたが、あまりにもドイツ語ができなくて日本文学科に転科したそうです。
大学4年生の時には、少しでも就職に有利になればとグラフィックデザインの専門学校に通いました。
21歳になった時、京都で開催されていたピカソ展に行き、初めてピカソが天才だったことに気づきます(笑)
またルソーの絵に出会い、今度こそ紛れもなく下手くそだと思ったもののなぜか惹かれ、ルソーに夢中になり、「いつかルソーの物語を書きたい。」と思うようになります。
原田マハさんって、ほんとにおもしろい方ですね。
1985年に大学を卒業。
その後、なかなか仕事が続かなかったのですが、1988年、飛びこみで「雇ってください」と訴えマリムラ美術館に就職しました。
この時も飛び込みでプレゼンして、その度胸を買われて採用されるという強運の持ち主です。
1994年、早稲田大学第二文学部の美術史科を学士受験し、みごと合格。
この時は人生最大の猛勉強をしたのだそうです。
ものすごい力の持ち主ですね!
1999年、森社長からの指示で通訳学校に入学。ビジネス通訳初級を獲得し、森社長の通訳を務めるそうです。
2002年、40歳にして、一番やりたいことをやろうと、何の展望もない中、森ビルを度胸で退職し独立。
2004年、「CET04 VISION QUEST」という展覧会を立ち上げて、2万人を動員します。
そしてその年、取材で訪れた沖縄で、運命の出会いが待っていたのです。
伊是名島に渡り、浜辺で遊ぶ男性とラブラドール犬に出会う。もちまえの好奇心から、「何て名前のワンちゃんですか」と聞いたところが、「カフーっていうんです」と。「どう言う意味ですか?」「沖縄の言葉で、『幸せ』という意味です」・・・・・・
その瞬間、何かが、どーんと下りてきた。沖縄の離島の浜辺で、幸せという名の犬に出会ってしまった・・・・・。
帰りのレンタカーの中で、すっかり小説のプロットができあがっていた。もし、あの犬の名前が「シーサー」だったら、小説を書くことはなかっただろう。飼い主の名嘉民雄さんの名付けセンスに感謝。
こうして小説家への道が開かれます。
2005年9月、処女作「カフーを待ちわびて」が完成します。
その年の10月には「CET05 Office Vacant」が始まり。5万人の動員を記録。
2006年、同作で小説家デビューを果たします。
原田マハさんはご自分の人生を「度胸と直感」と言われていますが、本当にその通りですね。
原田マハさんの度胸と直感に拍手喝采!!
受賞歴は以下の通りです。
2005年 「カフーを待ちわびて」で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞。
2012年 「楽園のカンヴァス」で第25回山本周五郎賞を受賞。
同作で第147回直木賞候補、第10回本屋大賞第3位に。
同年「キネマの神様」で第8回酒飲み書店員大賞を受賞。
2013年 「ジヴェルニーの食卓」で第149回直木賞候補に。
2016年 「暗幕のゲルニカ」で第155回直木賞候補に。翌年、本屋大賞6位になります。
2017年 「リーチ先生」で第36回新田次郎文学賞を受賞。
2018年、「たゆたえども沈まず」で2018年本屋大賞にノミネートされます。
そして、2019年、「美しき愚かものたちのタブロー」が第161回直木賞候補に選ばれました。
「カフーを待ちわびて」と「ランウェイ☆ビート」、「でーれーガールズ」は映画化され、「本日は、お日柄もよく」はテレビドラマに、「アイのリラ〜一分間だけ」は漫画にもなりました。
また「maha」の名でケータイ小説も執筆しておられます。
すごくエネルギーのある方ですね。
本名は?
「マハ」というのは、フランス最大の画家と言われるフランシスコ・ゴヤの作品
「着衣のマハ」、「裸のマハ」からとったそうです。
さすが、美術に造詣の深い原田マハさんですね。
もう一つ、ピカソと愛人との間に生まれた子供が「マハ」という名前だったそうです。
子供の時からピカソが好きだった原田マハさんは当然そのことを知っておられますから、これも名前の由来の一つになっていると思われます。
小説家である兄は原田宗典さんなので、「原田」は本名だと思います。
しかし、下のお名前は公表されていません。
もし情報が見つかりましたら、またこちらに追記させていただきますね。
夫は?
原田マハさんは1990年5月、28歳で結婚されます。
原田マハさんの夫は、以前は音楽関係の仕事をされていましたが、現在は原田マハさんのマネージャーみたいなことをされているのだそうです。
夫は優しい方のようで、文句も言わずに、原田マハさんをサポートしてくださっているのだとか。
羨ましいですね。
また夫も子供の頃から読書が好きな人だったようで、何度も読んでボロボロになった吉川英治さんの「三国志」を持っておられました。
原田マハさんは夫に勧められて、最初は気が進まなかったものの、32歳の時にやっと「三国志」を読んだそうです。
そうしたらすっかりハマってしまって、3か月間は「三国志」のことしか頭になかったということです。
あまりのことに、勧めた夫もびっくり仰天だったそうです。
兄もリサーチ!
兄は有名な小説家である原田宗典さんです。
原田マハさんと兄は、幼い頃、競争して本を読んでいたそうです。
そんな兄が子供の頃からの夢を叶えて、1987年に小説家としてデビューします。
原田マハさんは兄の根性と才能にびっくりしたと言われていますが、幼い頃から一緒に過ごした兄の小説家デビューを、きっととても誇らしく感じたことでしょう。
兄、原田宗典さんは、代表作「スメル男」、「やさしくって少しばか」などの小説や戯曲、エッセイなど多数の著書がある人気作家さんです。
しかし、兄は躁うつ病にかかり、人知れず苦しんだ時期がありました。
原田マハさんはそんな兄の社会復帰を支えていく決心をします。
現在、兄、原田宗典さんは執筆活動を再開しておられます。
また兄、宗典さんは躁うつ病であることを公にし、その関連の書物も出しておられます。
それから、「鼻の下研究所」や「王様鑑賞友の会」などユニークな私設機関を立ち上げておられます。
原田マハさんの兄は、きっと繊細さと面白さを併せ持った方なのでしょうね。
まとめ
今回は、原田マハさんについてお伝えしました。
なかなかユニークな人生を歩まれている方ですね。
原田マハさんのアートと文学が融合した小説は、いろいろなアートに触れ数多くの体験をしてこられた原田さんしか書けないもので、その魅力にはまるファンがたくさんおられます。
また原田マハさんの活動は幅広く、今年6月から募集が開始される京都文学賞の最終選考委員も務められるようです。
ぜひ一度、原田マハの世界を味わってみてくださいね。