先程、ペシャワール会の現地代表である中村哲(なかむら てつ)医師が、銃弾を受けて亡くなったというニュースが入ってきました。
ものすごくショックです。
私は今から15年ほど前に、中村哲医師の講演を聞きに行ったことがあります。
それからしばらくは、ペシャワール会の会報が我が家にも届いていました。
30年間もパキスタンやアフガニスタンの人々のために、危険と背中合わせの中で働いて来られた中村哲医師。
お話をされる中村哲医師は本当に優しい方で、現地の人達への愛に溢れていました。
今回は、そんな中村哲医師の経歴と功績そしてご家族と名言についてご紹介します。
中村哲医師の経歴について
まず中村哲医師の経歴についてご紹介します。
中村哲医師は1946年9月15日、福岡県福岡市に生まれました。
今年、73歳でした。
中村哲医師は子供の頃から昆虫が大好きで、珍しい虫を発見すると追いかけていたそうです。
大人になってからも昆虫採集と登山を趣味とされていました。
中村哲医師は小さい時から父親に「親を捨ててもいいから、世の中の役に立つ人間になれ。」と言われて育ちました。
その父親の教育が、あの中村哲医師を作ったのでしょうね。
中村哲医師は西南学院中学校、福岡県立福岡高等学校、九州大学医学部を卒業後、福岡の病院に勤務され、副院長までされました。
中村哲医師は、若い頃から国内の医療過疎地域の人々のために働くという使命感を持っておられましたが、登山隊の医師としてパキスタンとアフガニスタンにまたがる山に行かれた時、現地の人々の厳しい現実を目の当たりにし、ショックを受けられます。
そして、1984年、パキスタンのペシャワールに赴任し、20年以上にわたってハンセン病治療を中心とする医療活動に携わることになられたのです。
しかし、パキスタンの国内情勢は大変厳しくなり、活動を続けることが困難になりました。
それでその後、中村哲医師はアフガニスタンで活動を続けられます。
2000年、アフガニスタンで大干ばつが発生しました。
そのためアフガニスタンでは感染症が蔓延し、多くの乳幼児が犠牲となりました。
中村哲医師は「十分な食べ物と清潔な飲料水があれば防げたのに。」と、医療活動だけではなく、井戸を掘る事業を始めました。
2003年からは農村復興のために大規模な用水路の建設も開始されました。
このことで多くの雇用も生み出すことができました。
しかしそんな中、アフガニスタンでは、2001年のアメリカ同時多発テロ以来の爆撃やタリバンなどの反政府武装勢力による襲撃等が多発し、大変危険な国となります。
そして2008年に日本人スタッフ、伊藤和也さんが殺害されるという事件が起きました。
その後、中村哲医師は25人いた日本人スタッフを帰国させて、事務職員と2人でアフガニスタンに残られました。
中村哲医師はクリスチャンですが、アフガニスタンの人々の信仰や慣習を尊重し、現地に溶け込んで活動しておられる様子が、そのお話から伝わってきました。
中村哲医師の功績は?
次に中村哲医師の功績についてお伝えします。
中村哲医師は、パキスタンやアフガニスタンで多くの人々を診療し、その命を救って来られました。
しかし、中村哲医師はお医者さんでありながら、その活動は病院内にとどまらず、ゴツゴツした岩地を掘って井戸を作られたのです。
中村哲医師の著書「医者 井戸を掘る」には、日本の青年達と共に現地の人々を指揮して千の井戸を掘り、人々の命を守リ抜いた記録が収めてあります。
私はこの本を読み、「こんな人がいるんだ!」と、とても感動しました。
講演会があったのは、ちょうどその後でした。
アフガニスタンでは干ばつのために土地が砂漠化していき、多くの人が命を落としました。
中村哲医師は「清潔な水と食べ物さえあればほとんど人が死なずにすんだのに」と白衣を捨てて井戸掘りを始められるのです。
そして2003年からは「100の診療所より1本の用水路」と、福岡県の山田堰をモデルにした用水路の建設に着手されます。
それは途方もない計画と思われましたが、中村哲医師は仲間や現地の人々と共に、大きな石を一つひとつ運びながら、人々の命を守る用水路の建設を進められました。
これらの功績で、2003年に、アジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞されました。
翌2004年には、皇居において天皇陛下にアフガニスタンの現況を報告されました。
同年、第14回イーハトーブ賞を受賞されます。
2008年、アフガニスタン東部で完成した用水路は全長25.5kmあります。
そして中村哲医師は75万本の木を植え、3500ヘクタールの土地を耕作地として復活させ、約15万人が暮らしていけるようにされました。
この事業で200万人もの雇用を生み出すことができ、さらに難民も戻ってきました。
すごいことです!
中村哲医師は実現不可能に思えることを、人々を救うために、あきらめずとにかくコツコツと実践されたのです。
2018年、アフガニスタン政府は中村哲医師を「最大の英雄」と讃え、アフガニスタン国家勲章を贈りました。
その時、アフガニスタンのガニ大統領は「あなたの仕事がアフガン復興の鍵だ。」と中村哲医師に何度も話されたのだそうです。
ガニ大統領は今回の訃報を受けて、次のようなコメントを発表されました。
中村医師はアフガニスタンの偉大な友人であり、その生涯をアフガニスタンの国民の生活を変えるためにささげてくださいました。彼の献身と不断の努力により、灌漑システムが改善され、東アフガニスタンの伝統的農業が変わりました。
引用元 https://dot.asahi.com/wa/2019120400098.html?page=1
中村哲医師の家族は?
中村哲医師のご家族についてもご紹介します。
中村哲医師には妻の尚子さん(66歳)と5人の子供さんがおられます。
妻の尚子さんは、中村哲医師がパキスタンに赴任する前に勤務されていた福岡県の労災病院で看護師をされていた方です。
パキスタンに赴任される時には既に結婚されていて、子供さんもおられました。
最初、中村哲医師は家族を連れてパキスタンのペシャワールに赴任され、子供さん達は現地のインターナショナルスクールに通っていたそうです。
その後、妻の尚子さんと子供さん達は帰国し、福岡で暮らされました。
長男は健さん、長女は秋子さん(39歳)、三女は幸さん(27歳)です。
次男は10歳ぐらいの時に難病で亡くなったのだそうです。
中村哲医師は帰国された時は、長男の健さん家族と2世帯住宅で暮らしておられ、お孫さん達と遊んだりされていました。
長男の健さんは中村哲医師の告別式で親族代表の挨拶をされました。
健さんはまず最初に、共に命を落とされた運転手や警備の方達とその遺族への謝罪とお悔やみを述べられました。
そして後半、このように語られました。
私自身が父から学んだことは、家族はもちろん人の思いを大切にすること、物事において本当に必要なことを見極めること、そして必要なことは一生懸命行うということです。
引用元 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/567227/?page=2
火野葦平さんの長編小説「花と竜」の主人公、玉井金五郎は中村哲医師の祖父がモデルになっています。
妻の尚子さんは、今回の悲報を受け、「今日みたいな日が来ないことだけを祈っていた。」と語られました。
本当に今まで、毎日毎日、そう祈って来られたのでしょうね。
年末年始には、もしかしたら帰国されることになっていたかも知れませんね。
中村哲医師は日頃「自分は好き勝手なことをしているから家族には迷惑をかけたくない。」と話しておられたそうです。
また、ある取材で「日本に残してきた家族に、罪滅ぼしをしたいと思うこともある。」と語っておられます。
妻の尚子さんによると、中村哲医師はいつもさらっと帰ってきて、またさらっと出かけられたということで、先月11月29日に「行って来ます。」と発たれたばかりだったそうです。
突然の訃報、ご家族にとっては信じられないことでしょう。
中村哲医師の名言
最後に中村哲医師が残された名言をお伝えしたいと思います。
憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓う
2008年にペシャワール会のスタッフ、伊藤和也さんが殺害された時の言葉です。
誰もそこへ行かぬから、我々がゆく。誰もしないから、我々がする
著書「辺境で診る辺境から見る」の中の言葉です。
自分に災いが降りかかるのを恐れ、知らぬ顔をすることが多い者にとって、心にズキッと差し込んでくる言葉です。
鍬も握っていない外国人が農業支援を行うことはできません
これも「辺境で診る辺境から見る」の中の言葉です。
自分は鍬を握らず、汚れもせず、お金だけを出して農業支援を行ったという国に向けての言葉ですね。
「戦争協力が国際的貢献」とは言語道断である
こちらも「辺境で診る辺境から見る」に書いてある言葉です。
中村哲医師は講演の中でも「武器を鍬に持ちかえよう。」と言われていました。
「国際的貢献」という名のもとで、どれだけの罪のない人々が命を落としたことか・・・。
医者であれば、一番必要とされるところで喜ばれるのが本望というものでしょう。なんべん考えても、ほかに選びようがなかった。
(日本の医療現場で働くという)別の道を選べば、死ぬときに悔いが残るだろうと考えた。
これは丸山直樹さんという方の著書 「ドクター・サーブ―中村哲の15年」にある言葉です。
中村哲医師は日本におられれば、たくさんの名声や豊かなくらしを手に入れることができた方だったでしょう。
でも、ご自分の良心に逆らうことができない真に誠実な方だったのですね。
口先だけじゃなくて行動に示せ。俺は行動しか信じない。
長男の健さんが告別式の挨拶で語られた言葉です。
父親の中村哲医師から、いつもそう言われていたと。
私も、この中村哲医師の言葉を心に覚えておきたいと思います。
まとめ
今回はパキスタンやアフガニスタンの人々のために生涯を捧げられた中村哲医師の経歴と功績、ご家族そして名言についてご紹介しました。
こちらの本は、中村哲医師の活動の集大成とも言える一冊です。
本当に、このタイトルのように、中村哲医師には天が共に在って、その奇跡が成されていったのだと思います。
心から、中村哲医師の働きに感謝し、ご冥福をお祈りいたします。