河西昌枝の結婚と夫と子供について!名言は?プロフィールもチェック!

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東京オリンピックの開催まで9ヶ月を切りましたね。

オリンピックを目標にしている選手の皆さんは、その日に向けて一日一日を大事に過ごしておられることでしょう。

さて、NHK大河ドラマ「いだてん」では、いよいよ1964年東京オリンピックの開催が決定します。

そして、あの「東洋の魔女」と言われた女子バレーボールチーム、日紡貝塚のキャプテン、河西昌枝(かさい まさえ)さんが登場します。

実は、私はその時、小学1年生。

そんな子供にも「東洋の魔女」の噂は伝わったものです。

それから日本にバレーボールブームがやって来て、小学生の私は「アタックNo.1」や「サインはV」に夢中になりました。

今回は、日本にバレーボールブームを巻き起こした「東洋の魔女」のキャプテン、河西昌枝さんの結婚と夫と子供そして名言とプロフィールに迫ります。

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河西昌枝の結婚と夫について

けんぼさんによる写真ACからの写真

まず、河西昌枝さんの結婚についてお伝えしたいと思います。

河西昌枝さんは1965年5月30日に結婚されました。

1964年の東京オリンピックで金メダルを獲った河西昌枝さんは翌年、1965年の1月に日紡を退社され、それからすぐの結婚でした。

「東洋の魔女」と呼ばれ、世界中にその存在を知らしめた河西昌枝さんはじめ、チームのメンバーの本当の目的は、オリンピックで金を獲ることではなく結婚だったのだそうです。

当時、日本の女性の大半は20代始めで結婚しました。

女性は結婚して子供を産んで家庭を守るのが当然だというのが世間一般の常識だったのです。

そういう風潮の中、東京オリンピックの時、29歳だった河西昌枝さんとその両親が焦るのは当然ですよね。

しかし、1962年の世界バレーボール選手権大会で優勝した彼女達へ、オリンピック金メダルの期待は高まる一方でした。

それで彼女達は、東京オリンピックで金を獲るしか引退、結婚の道はないと心を決めたのだそうです。

勝利のために厳しい特訓を課した大松博文監督でさえ、「この娘達を早く結婚させなければ。」と思っていました。

「リーダーの河西昌枝さんを結婚させなければ、他のメンバーも結婚できない。」と思った大松監督は、何と、当時の総理大臣だった佐藤栄作さんに面会し、お願いしたのだそうです。

大松監督という方は、ただチームを強くするだけでなく、メンバー一人ひとりのことを本当に大事に考えておられたんですね。

そして佐藤栄作夫妻が仲人となり、河西昌枝さんの結婚が決まりました。

河西昌枝さんの結婚披露宴は5月31日に東京で行われましたが、時の人だった河西昌枝さんの結婚披露宴の様子はテレビ中継されたほどです。

河西昌枝さんの夫になった方は中村和夫さんと言われます。

夫の中村和夫さんは自衛官で、昌枝さんよりも2歳年上でした。

身長は昌枝さんよりも2cm低かったとか。

この話があった時に、夫の中村さんは国民のヒロインである河西さんが相手だなんて気が引けたのですが、河西昌枝さんが積極的にアタックしてゴールインしたとのこと。(笑)

結婚後は夫の和夫さんと幸せな家庭を築かれました。



河西昌枝の子供は?

河西昌枝さんにはその後、3人の子供達が生まれました。

「東洋の魔女」と自衛官の子供達なので、運動神経はすごかったでしょうね。

3人の子供さんのうち、お二人が息子さん、お一人が娘さんです。

子供さん達が成長すると、河西昌枝さんはまたバレーボール界に復帰し、今度は指導者として、ママさんバレーの普及や子供達の育成のために頑張られました。



河西昌枝の名言

そんな河西昌枝さんの言葉は、名言として今でも語り継がれています。

ここでは、その中からいくつかをご紹介します。

わたしたちは、「できない」ということは禁句であった。できないことをやるのが練習だったからである。そして、これらの過程で手足もからだも鍛えられた。

私の想像をはるかに超えた過酷な練習の日々だったのですね。

わたしたちが続けた練習というのは、単に個々の技術の錬磨ではなかった。わたしがこういうトスを上げた方がいいんだと思って上げる。すると、こういうトスが来ると判断して待ち構えて打つ。あの人がああいうかっこうをしてレシーブしたら、ボールはこっちへ飛ぶ。わたしはこういうふうに出てこうする。この以心伝心の連繋動作が、よりいっそう緊密になり、6人が完全に一体となるための練習でもあった。

こうやって最強のチームが出来上がっていったのですね。

「あなたたち選手の全員に憎まれてもいい、チームが強くなってくれれば」という言葉を、わたしはしばしば使っています。練習の激しい最中には、たしかに、そういう言葉を使いましたが、実際に全員に憎まれてはキャプテンは務まるわけがありません。裏を返せば、信頼しあって、猛訓練に耐えていこうという表現だったのです。つまり私自身としては、選手に信頼されるキャプテンであろうとした、ということです。

過酷な練習の中、河西昌枝さんはキャプテンとして自分のことだけでなく、常にメンバーのことを考えておられたのですね。

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わたしたちが、来る日も来る日も、何百回、何千回と練習してきた回転レシーブも、それこそ事実血を流して習得してきた回転レシーブでさえ、いざ実際の試合になれば、そのうちのほんの二つか三つぐらいしか応用できないということです。それに、ふだんあんなにうまく上げられたボールをミスすることさえあるではありませんか。いつだって努力の何分の一しか答えは得られないのです。やっぱり凡人であるわたしたちにできることは、努力することなのでしょう。

ああ、この言葉はとても心に来ます。

「東洋の魔女」でさえも、そうだったんですね。

凡人の私は、何かを成し遂げようと思ったら努力しかない。そして努力の何分の一かの答えをもらう。

心に刻んでおきたい名言です。

2020年オリンピック招致を目指して、私は元気でいられたらいいな、と思っております。これからの私の努力は、8年後、元気でいられること。大勢のみなさんと出会いながら、素晴らしい一生でありたいと思っております。

引用元 https://president.jp/articles/-/8245

2012年、河西昌枝さんは2020年東京オリンピック・パラリンピック招致を支援する「アスリートフォーラム」に出席され、ご自分の経験を話されました。

その時の言葉です。

当時、河西昌枝さんは79歳でした。

自分たちが経験した東京オリンピックの次の東京オリンピック。

その実現を心から待ち望まれたのですね。

河西昌枝のプロフィールと経歴

最後に河西昌枝さんのプロフィールと経歴をまとめておきます。

プロフィール

生年月日 1933年7月14日

出身地 山梨県中巨摩郡(現在の南アルプス市)

1952年 日紡足利工場に就職

日紡代表女子バレーボールチーム日紡貝塚創設に伴って異動

1959年から1966年にかけて258連勝。

1962年 世界選手権(モスクワ)で優勝。

1964年 東京オリンピックにて優勝。

1965年 引退。結婚して中村昌枝に。

同年 女子バレーボールのクラブチーム「フジクラブ」に参加。

その後は、ママさんバレーなどの指導、普及に尽力。

2003年 日本バレーボール協会の女子強化委員長に就任。

2004年 アテネオリンピックにおいて全日本女子チームの団長に。

2008年 バレーボール殿堂入り。

経歴

河西昌枝さんは1933年7月14日、山梨県中巨摩郡(現在の南アルプス市)に生まれました。

河西昌枝さんは中学時代にバレーボールを始めました。

地元の山梨県立巨摩高校を卒業すると日紡(大日本紡績)に入社します。

当時、日紡は従業員の福利厚生として、各工場に女子バレーボールチームを作り、工場単位で試合をしたりしていました。

日紡尼崎と日紡足利は、全日本女子総合優勝を果たすほどの強豪チームに成長し、日紡は1954年に、強い選手達をまとめ日紡貝塚を結成しました。

その監督として就任したのが「鬼の大松」と呼ばれた大松博文氏です。

日紡貝塚は、1959年から258連勝記録を作るものすごいチームになり、この頃から「東洋の魔女」と言われていました。

河西昌枝さんは「東洋の魔女」のキャプテンとして大活躍をしていました。

1962年にモスクワで行われた世界選手権で優勝。

日本中が1964年の東京オリンピックでの金メダルを期待するようになりました。

前述したように、メンバーやその家族は結婚して家庭を作るのを望んでいましたが、彼女たちにそれが許されるはずもなく、河西昌枝さんも一度口にした「引退」の言葉を撤回せざるを得ませんでした。

そして、東京オリンピックでの金メダルを目指して信じられないような厳しい練習の日々を送ることになります。

その練習は、早朝から夕方まで紡績工場で働いた後、午前1時半まで9時間も続いたといいます。

そして睡眠時間5時間で、また仕事に従事しなければいけないのです。

その猛練習から生まれたのが、あの回転レシーブです。

体格で負ける日本チームが勝つためには徹底的にボールを拾わなければいけなかったのです。

河西昌枝さんは恐怖を感じる自分に「跳んでも痛くないから大丈夫だよ。」と言い聞かせて練習したのだそうです。(涙)

こうして東京オリンピックでの金メダルを手にします。

その時、河西昌枝さんの手指の爪は少し伸びていました。

それは結婚も諦めないといけないかも知れない河西昌枝さんの女性としてのささやかな抵抗だったのだそうです。

オリンピックの後、河西昌枝さんはすぱっと引退し、結婚されます。

その後は、家族を大切にしながらも、ママさんバレーの普及活動や子供達への指導などを続けられました。

河西昌枝さんは最後まで、バレーボールはじめスポーツの普及と東京オリンピックの再びの開催を願い、後輩達を応援されました。

そして2013年10月3日、80年の尊い生涯を閉じられました。

2度目の東京オリンピックの開催が決まった1ヶ月後でした。

まとめ

今回は、「東洋の魔女」と言われた女子バレーボールチームのキャプテンであった河西昌枝さんについてお伝えしました。

私達は、テレビの前で選手達を応援するだけですけど、バレーボールだけでなく、どの種目の選手達も信じられないような過酷な練習と不安に打ち勝って、本番の舞台に立つのですね。

オリンピックを目指している全ての選手達に、心からのエールと感謝を贈りたいと思います。



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