「ベトナムの赤ひげ先生」と呼ばれ、20年間も無償でベトナムの人々の失明予防に力を注いで来られた服部匡志(はっとり ただし)さんにマグサイサイ賞が贈られました。
マグサイサイ賞は「アジアのノーベル賞」とも言われ、2003年には故中村哲医師が受賞されています。
今回はマグサイサイ賞を受賞された眼科医、服部匡志さんの家族と妻、現在、出身大学と高校、そして経歴とプロフィールについてお伝えします。
2003年にマグサイサイ賞を受賞された故中村哲医師についてはこちらをどうぞ。
服部匡志の家族と妻について
まず、服部匡志さんの家族と妻について調べてみました。
服部匡志さんのご家族について詳しいことは分かりませんでしたが、服部匡志さんは結婚されていて妻がおられます。
ベトナムで失明の危機にある患者さん達を救うためには医療機器の購入に数百万円ものお金が必要でした。
服部匡志さんは、何とかそのお金を手に入れたいといろいろなところを訪ねますが、日本での肩書きを失った服部さんに協力してくれるところはどこにもありませんでした。
服部匡志さんは最後の手段として、妻にお金を出してくれないかと頼みます。
そのお金というのは、家を購入するために妻がコツコツと貯めたものでした。
当然、妻は断り、自分の夢まで奪わないでと怒って夕ご飯も作ってくれなくなったそうです。
でも最終的には、妻はベトナムの患者さん達を救うために自分の夢を犠牲にして、一生懸命に貯めた数百万円を差し出してくれたのです。
何て素晴らしい方でしょう。
そんな妻の支えがあってこそ、服部匡志さんはベトナムでの働きを続けることができたのです。
また、服部匡志さんの信念は「患者さんを自分の家族と思え」ということです。
決して自分の儲けのためではない、誠心誠意、その患者さんのことを思って力を尽くす。
最初は不信の目で見ていたベトナムの医師達も、服部匡志さんのこの姿勢と確かな実力が本物であることを知り、服部さんを信頼するようになっていきました。
服部匡志の現在は?
服部匡志の出身大学と高校
服部匡志さんの出身大学と高校についてもお伝えします。
服部匡志さんの出身大学は京都府立医科大学です。
服部匡志さんは京都府立医科大学の医学部で学ばれました。
服部匡志さんは大学卒業後、外科医を希望しておられましたが、眼科の木下教授との出会いがきっかけで眼科医の道に進まれました。
また、服部匡志さんの出身高校は大阪府立四條畷高校です。
服部匡志さんはもともと文系を志望されていましたが、高校時代に父親を胃がんで亡くしたことがきっかけで医師になろうと決心されました。
服部匡志の経歴とプロフィール
最後に、服部匡志さんの経歴とプロフィールをまとめておきます。
経歴
服部さんは小学校時代にクラスでいじめに遭っていたそうです。
そのつらい経験が人に寄り添うことのできる人にしたのかも知れません。
中学校に入学すると勉強をがんばって学年でトップの成績になりました。
自信がついてきて、生徒会長にもなったのだそうです。
そんな服部匡志さんが中学3年の時、父親が胃がんであることが分かり、そして高校時代に父親を亡くします。
父親が入院されている時、医師が心ない言葉を投げたそうです。
そのことが文系志望だった服部匡志さんに医師になる決心をさせました。
人の心の分かる医師になろうとされたんですね。
服部匡志さんは4浪して医大に入りました。
でも大学ではまじめに勉強せず、1年間留年をしたそうです。
服部匡志さんは胃がんの専門医になるつもりでしたが、眼科の木下茂教授との出会いがその後の人生を決定することになりました。
服部匡志さんは1993年に京都府立医科大学を卒業した後、大学病院で研修を行ない、その後、眼科医として大阪で働き始めました。
しかし、患者さんを家族と思って仕事をする服部匡志さんは他の医師と衝突することも多くなり、大学関連の病院を離れ、ご自分の信頼する医師のもとで働き始めます。
2001年、服部匡志さんは日本臨床眼科学会で知り合ったベトナムの医師から、ベトナムでは多くの人が手術を受けられずに失明しているということを聞かされます。
服部匡志さんはこの言葉に心を動かされ、家族の反対を押し切って、2002年にベトナムに行くことになりました。
最初は3ヶ月間だけ行くつもりだったので、当時勤めていた病院に休暇の申請を出したのですが受け付けてもらえず、服部匡志さんはその病院を辞めてベトナムに行きました。
そして、ベトナムでの無償の医療活動は3ヶ月では終わらずに、とうとう現在に至るまで20年間も続くことになったのです。
そして、今年2022年8月31日、「自らの報酬を顧みず現地での活動に尽くしてきた」ということで、服部匡志さんにマグサイサイ賞が授与されることが決まりました。
本当にすごいことです。
プロフィ-ル
服部匡志さんのプロフィールについては、医療専門サイト「m3.com」に掲載されているものを以下に紹介させていただきます。
1964年大阪府生まれ。1993年京都府立医科大学卒業。大阪、京都、熊本、福岡、静岡の病院で研鑽を積んだ後、2002年よりベトナム国立眼科病院で活動を開始。2013年読売新聞社「読売国際協力賞」を受賞。同年外務大臣表彰。2014年ベトナム政府より外国人に贈られる最高位の「友好勲章」を叙勲。2015年日本看護協会とJ&Jより「ヘルシーソサイエティ」賞を受賞し、皇太子殿下(現天皇陛下)から祝辞。服部氏の活動は、NPO法人「アジア失明予防の会」が支援している。著書に『人間は、人を助けるようにできている』(あさ出版)など。服部氏の活動は、情熱大陸(2006年)、NHK地球アゴラ(2008年)やカンブリア宮殿(2016年)などのドキュメンタリーで紹介されており、日越45周年記念としてNHKドラマスペシャル『ベトナムのひかり』(2019年)でドラマ化もされた。
まとめ
今回は、マグサイサイ賞を受賞した眼科医、服部匡志さんについてお伝えしました。
自分の儲けのためには人をも顧みない悲しい事件が多い中、服部匡志さんのような方がおられ、今も活動されているなんて本当に素晴らしいことだし、私も服部匡志さんの生き方に学びたいと思いました。
最後に服部匡志さんの下の言葉を紹介して終わります。
患者を助けることで僕も救われます。僕の価値観では、家は住めれば良く、車は動けば良い。この仕事はお金儲けに走ろうと思ったらいくらでも走ることができます。けれども僕は、患者さんを救う機会を与えてもらったために、幸せに共感できる貴重な機会を得ました。海外で働くときの心がけでも話しましたが、人と人は対等です。「目の前に困っている人がいたら、遠慮なく人を助ける」自らお金を出してでも、それが自然にできるようになったことは僕の心の宝です。
創⽴150周年記念インタビュー|京都府立医科大学 創立150周年記念事業特設サイト