前畑秀子の家族について!夫と息子と娘は?孫も調査!

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皆さん、前畑秀子選手をご存知ですか?

そう、オリンピックにおいて、日本人女性として初めての金メダルを手にした水泳選手です。

前畑秀子選手と言えば、ベルリンオリンピックでのNHKアナウンサー、河西三省さんの「前畑がんばれ!」が今でも語り草ですよね。

この実況アナウンスはCDにもなっているそうです。

【中古】第11回国際オリムピック大会水上競技実況放送 女子二百米平泳決勝(河西三省)/二百米平泳決勝決勝(山本照)

さて、7月14日のNHK大河ドラマ「いだてん」に、この前畑秀子さんが登場します。

「いだてん」で前畑秀子さん役をされるのは今、注目の女優さんで、アニメ映画「未来のミライ」の主人公の声優を務めたことでも話題になった上白石萌歌さんです。

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楽しみですね。

今回は、この前畑秀子さんの家族や夫と息子と娘それに孫についてもお伝えしたいと思います。

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前畑秀子の家族について

acworksさんによる写真ACからの写真

まず前畑秀子さんの家族について見ていきたいと思います。

前畑秀子さんの両親は和歌山県伊都郡橋本町(今の橋本市)で豆腐屋さんをしておられました。

前畑秀子さんの家族は父母と5人の兄弟でした。

父親の名前は福太郎さん、 母親はミツヱさんと言われ、秀子さんは二人の間に長女として生まれました。

秀子さんは小さい頃は病弱だったそうです。

両親は、そんな秀子さんに強くなって欲しくて、髪は短く切り男の子のように育てたということです。

また秀子さんが3歳になると、近くを流れている紀ノ川で泳がせました。

紀ノ川に妻の浦というところがあり、そこは流れが穏やかで、泳ぐのにちょうどいい深さもありました。

こうして前畑秀子さんは元気な体になり、小学生になると一人で津の浦で泳ぐようになりました。

水泳が得意になった前畑秀子さんはいろいろな大会で素晴らしい記録を打ち立て、活躍していましたが、1931年、秀子さん16歳の時に母親の光枝さんが脳溢血で亡くなります。

まだ48歳という若さでした。

16歳の少女だった秀子さんはどんなにショックだったでしょうね。

しかし、その5か月後、更なる悲しみが秀子さんを襲います。

それは父親、福太郎さんの死です。

父親は51歳、やはり脳溢血でした。

まだ17歳の前畑秀子さんでしたが、水泳を止めて長女として実家の豆腐屋を継ぐことを決心します。

でも彼女に水泳を続けて欲しい周りの人たちの説得と兄、正一さんが嫁をもらうということもあり、前畑秀子さんは水泳を続けることができました。

その時に秀子さんを励ましたのは、生前の母親から言われた「一度始めたことはどんなに苦しいことがあってもやり遂げなさい。」という言葉でした。



前畑秀子の夫は?

のきさとさんによる写真ACからの写真 

次に前畑秀子さんの夫について見ていきましょう。

前畑秀子さんは1936年、22歳の時に結婚をします。

夫は兵藤正彦さんと言われ、当時、27歳でした。

夫の正彦さんは、名古屋医科大学(今の名古屋大学医学部)で助手をされていました。

2人はお見合い結婚で、仲を取り持ったのは、椙山女学園の設立者である椙山正弌(すぎやま まさかず)さんでした。

秀子さんと夫の正彦さんは名古屋に新居を構え、幸せな結婚生活をスタートさせました。

ところが新婚5ヶ月にして、夫に召集令状が届きます。

夫は軍医として戦地に赴きました。

本当に辛いですね。

1941年に夫は無事に帰還し、名古屋での生活を再開したのですが、その矢先、またもや夫に召集令状が。

2年後の1943年に戻って来られるのですが、その年に3度目の召集令状が届くのです。

戦争って、人々の日常を破壊してしまいます・・・。

幸いなことに3度目は内地勤務になり、復員後は岐阜市長森で開業医として働きます。

前畑秀子さんは免許は持っていなかったのですが、看護見習いとして夫を助けました。

しかし、1954年、夫が脳溢血のために帰らぬ人となります。

夫50歳という若さ、秀子さんは45歳でした。



前畑秀子の息子と娘は?

次は前畑秀子さんの息子さんや娘さんについて見ていきます。

前畑秀子さんには2人の息子さんがおられます。

娘さんはおられません。

上の息子さんは兵頭正臣さん、下の息子さんは兵頭正時さんと言われます。

長男の正臣さんは母親の秀子さんに勧められて、中高時代、水泳部に所属しておられましたが、母親があの前畑秀子ということで随分プレッシャーがあったようです。

それにあまり成績が良くなく、「前畑の息子なのに。」と言われ、悔しかったそうです。

夫の正彦さんが亡くなった時、2人の息子さん達は高校1年生と3年生でした。

長男の正臣さんはその後、歯科医になられました。

正臣さんは2014年に和歌山県橋本市で開かれた「畑秀子・古川勝 記念大会」に来賓として出席されました。

次男の正時さんは既にお亡くなりになっているようですが、正時さんの妻、尚子さんは前畑秀子さんの晩年、共に過ごされたようです。

前畑秀子の孫も調査!

前畑秀子さんのお孫さんについても調べてみました。

お孫さんは何人かおられると思いますが、ここでは次男の正時さんの息子の兵藤大二郎さんについてお伝えします。

正時さんの次男で前畑秀子さんの孫である兵藤大二郎さんは単身でアメリカに渡り、アメリカの高校と大学で学ばれました。

その後更にイギリスの大学でスポーツマネージメントを学び帰国されました。

そして1986年、祖母である前畑秀子さんの意思を継ぎ、「スポーツを通して豊かな社会作り」を目指して株式会社スポーツマックスを設立されました。

会社は名古屋にあり、お孫さんの兵藤大二郎さんが社長をされています。

2014年に開催された「前畑秀子展」には、秀子さんの義理の娘になる尚子さんと、お孫さんの大二郎さんが資料の提供をされたということです。

前畑秀子の経歴

それでは最後に前畑秀子さんの経歴をまとめておきます。

前畑秀子さんは1914(大正3)年、和歌山県伊都郡橋本町に生まれました。

ご実家のことや小さい時のことは前述しています。

水泳の記録としては、尋常小学校5年生の時、女子50m平泳ぎで学童新記録を出し、高等小学校2年生の時には汎太平洋女子オリンピック 100m平泳ぎで優勝、200m平泳ぎで準優勝に輝きました。

前畑秀子さんは高等小学校卒業後に実家の豆腐屋を手伝うつもりでしたが、名古屋の椙山女学校(現在の椙山女学園)の初代学長、椙山正弌にその素質を認められ、椙山女学校に進むことになりました。

椙山学長は前畑秀子さんのために学園内にプールを作り、寮に住まわせました。

そうやって水泳を続けた前畑秀子さんは1932年のロサンゼルスオリンピックに出場し、200m平泳ぎで銀メダルを獲得します。

金メダルだったオーストラリアの選手とは実に0.1秒差だったそうです。

前畑秀子さん自身はこの結果に満足で、水泳を引退しようとも思いましたが、祝賀会の席で、オリンピック誘致に一生懸命だった当時の永田秀次郎東京市長から「なぜ金メダルを取らなかったんだ。」と言われ、次のベルリンオリンピックに出る決心をします。

でも当時は前畑選手のコーチができる人材もなく、前畑選手は自分の力で練習を頑張らなければいけませんでした。

前畑選手は1日に2万m泳ぐと決め、毎日それを達成しました。

そして1933年、200m平泳ぎで世界新記録を出します。

ベルリンオリンピックでは絶対に金メダルを取らなければいけないというプレッシャーの中、前畑選手は冬は陸上でのトレーニング、4月からはプールで、毎日25mを400回往復しました。

1935年には東京で行なわれた水泳競技大会において、女子200メートル平泳ぎで世界記録を出しました。

前畑秀子選手は何という強固な精神と体力の持ち主だったんでしょう。

そして1936年、ベルリンオリンピックにおいて、日本人女性として初めての金メダルを掴み取るのです。

その時のラジオ実況中継の河西三省アナウンサーが10回以上も叫び続けた「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」はあまりにも有名です。

この中継を聴き、日本中が前畑選手を応援し、金メダル獲得の喜びに沸きました。

前畑秀子選手がこの試合に臨む時のエピソードが残っています。

前畑選手はお守りの一つを丸め、水と一緒に飲み込んだのだそうです。

どれだけの必死さだったのかが伝わってきますね。

スタート台では「お母さん秀子を助けてね。」と心の中で叫び、泳いでいる間中も「お母さん、助けてください!」と叫び続けました。

金メダルが決まった時、兄の正一さんはすぐに仏壇の父母に報告したそうです。

前畑秀子さんはその翌年に結婚し、兵頭秀子さんになられます。

前述したように、前畑秀子さんは夫を失くし、「これからどうやっていこうか。」と思っていた時に母校の椙山女学園から医務室兼水泳部のコーチにならないかと声がかかりました。

そして兵頭秀子として後進の育成に努め、またママさん水泳教室を開き、水泳の普及に貢献されました。

1964年には秋の褒章で紫綬褒章を受章

1983年、69歳の時、脳溢血で倒れますが、リハビリによって奇跡的に回復し、再びプールに戻って指導を始めたのです。

その時、リハビリの日々で聞いたのが、あの「前畑、頑張れ!」のカセットテープでした。

その時のことを、前畑秀子さんは後に「絶望の淵から這い上がった経験こそ、金メダル以上の価値があった。」と語っておられます。

1990年には文化功労者に選ばれます。日本女子スポーツ界からは初めてのことでした。

そんな前畑秀子さんは1995年2月24日、急性腎不全で80年間の尊い生涯を閉じられました。



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