皆
さん、2年前にオバマ元大統領が広島を訪れた際の感動的な抱擁のシーンを覚えていらっしゃいますか?
オバマ元大統領と抱擁をした方は被爆者の一人である森重昭(もり しげあき)さんです。
森重昭さんは40年にも渡って、被爆した米兵のことを調べ続けた方です。
森重昭さんは、戦争当時は「敵」であった米兵のことを自分の家族のように熱い心で調査し続け、遺族達に事実を伝えられました。
森重昭さんは今年5月に初めて訪米し、戦争で亡くなった米兵達に鎮魂の祈りを捧げ、また国連本部でスピーチをされました。
あるマサチューセッツ州議会議員は森重昭さんについてこのように述べています。
アメリカと日本が力を合わせれば世界により良い影響を及ぼせることを、森さんは身をもって示してくれました。1人の人間の行為が大きな変化をもたらすことができるのです。森さん、亡くなったわが国の兵士たちのことを思ってくださってありがとうございました。
引用元 https://www.nippon.com/ja/currents/d00411/
森重昭さんは生涯をかけて、アメリカと日本をつなぐこと、そして平和への道を作るという
一大事業を成して来られました。
私は森重昭さんについて調べて、こんなにすごい人がいるんだと心から感動しました。
偶然、今日はノーベル平和賞の発表の日ですが、こんな人にこそ、ノーベル平和賞は与えられるべきだと思います。
それでは森重昭さんについて、どうぞお読みください。
森重昭の妻と子供について!
まず、森重昭さんの妻と子供について見ていきたいと思います。
森重昭さんには76歳の妻と二人の子供さんがおられます。
妻のお名前は佳代子(かよこ)さんと言われます。
妻の佳代子さんは3歳の時、広島市西区の自宅で被爆しました。
妻はエリザベト音楽短大(現在のエリザベト音楽大学)の卒業生です。
1954年に広島市の世界平和記念聖堂が完成して以来、毎年8月6日に行われていた市民コンサートが一時期途絶えたのですが、2004年にそれを復活させた一人です。
妻は自分や家族の被爆についてあまり語らず、夫の重昭さんが被爆米兵の調査のために時間もお金もかけるのに反対していた時期もありました。
アメリカにいる遺族を探し出すための国際電話の料金が月7万円になることもあったそうですから、反対するのも当然ですよね。
しかし2016年のオバマさんの訪日をきっかけに自分の被爆体験に向き合い始めました。
森重昭さんの取り組みを描いたドキュメンタリー映画「灯籠流し」(原題 Paper Lanterns)のバリー・フレシェット監督が、突然森さんの自宅を訪問した時、妻の佳代子さんが毎年8月6日の夜に広島で行われる灯籠流しの話をされたそうです。
それがこの映画の題名になったのですね。
2人の子供さんについては情報がありませんでしたが、こんな両親の姿を見てきた子供さんたちですから、きっと核廃絶への願いと隣人を自分のことのように大切にする気持ちはしっかりと引き継いでおられることでしょう。
経歴とプロフィール
森重昭さんは1937年3月29日 、広島市に生まれました。
現在、 81歳です。
森重昭さんは清美学校幼稚園に入学しました。
国民学校3年生の時は集団疎開に行かずに己斐に転校しました。
森重昭さんは8歳の時、そこで被爆します。
当時、森重昭さんは爆心地から2.5km程の学校近くの丘にいたそうです。
森重昭さんは爆風で小川に飛ばされ、奇跡的に助かりました。
キノコ雲から死体が落ちてくる光景や生きながら焼かれる人々を目の当たりにするという信じられないような体験をしました。
森さんは歴史が好きで成績もよく、将来は歴史学の教授になりたいという夢を持ち、中央大学に進学します。
大学卒業後は、歴史学の夢を持ちながらも山一證券や日本楽器(現在のヤマハ)で働きました。
38歳の時、終戦時にアメリカの戦闘機が山口県の伊陸(いかち)村というところに墜落したと聞き、森さんは実際に墜落現場に行きます。
そこで爆撃機の残骸を目にした森さんは、それからたくさんの歳月をかけて乗組員達が憲兵隊に連れて行かれたことやその後撃ち落とされた爆撃機の乗組員達も捕虜にされたことを突き止めます。
森さんはこの情報を何とかアメリカの遺族に伝えたいと思いました。
アメリカ全土から、この乗組員達の遺族を探し出すなんて、何て無謀な、気の遠くなるような話でしょう。
しかし、森さんの強い意思と熱意はそれをやり遂げたのです。
その後の40年間、森さんは仕事をしながら、被爆し亡くなった12名の米兵捕虜の身元を特定し、遺族を探し出す活動を続けました。
そして1999年、森重昭さんは12名の被爆米兵の名前を刻んだ原爆犠牲米軍人慰霊銘板を中国憲兵隊司令部の跡地に自費で設置しました。
2004年には国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に被爆捕虜の名前が初めて登録されました。
2008年、今までの調査により明らかになった被爆米兵についての真実を一冊の本にまとめ「原爆で死んだ米兵秘史」を出版します。
2009年、12人全員の遺影付きの登録が完了します。
2012年、原爆投下を命じたとされるハリー・トルーマン大統領の孫であるクリフトン・トルーマン・ダニエルさんが初来日した際には、この記念碑に共に献花をします。
そして2016年5月27日、大統領として初めて原爆が投下された広島を訪問したオバマ大統領と抱擁を交わすのです。
この年、著書「原爆で死んだ米兵秘史」は第64回菊池寛賞を受賞しました。
2017年10月、東京で開かれた米日財団理事会において功労賞を受賞します。
今年2018年、森重昭さんは初めてアメリカを訪れ、国連本部でスピーチをし、その場にいた人々に大きな感動を与えました。
こんなに偉大な業績を成し遂げた森重昭さんですが、森さんの活動はまだ終わった訳ではありません。
現在は、8月9日に原爆投下された長崎で亡くなったオーストラリアとオランダの捕虜兵士についての調査をしておられるということです。
「原爆で死んだ米兵秘話」も紹介!
森重昭さんが40年にもわたって調査した米軍のパイロット捕虜に関する史実をまとめたものが著書「原爆で死んだ米兵秘史」です。
「原爆で死んだ米兵秘史」は2008年に刊行されました。
アメリカ政府は、1983年まで「被爆したアメリカ兵はいない」と言い、遺族の問い合わせにも誠意を示さず、もちろん被爆米兵に関する研究には非協力的でした。
そんな中、森重昭さんは自分の時間とお金を費やし、研究と調査を続けます。
この本には森重昭さんの執念の研究で明らかになった原爆投下と12名の被爆米兵に関する史実が記されています。
また長崎での被爆米兵9名についても記載されています。
「原爆で死んだ米兵秘史」は2016年に改訂版が出版されました。
以下は改訂版の内容です。
プロローグ
1.原爆の絵
2.狙われる広島
3.撃墜
4.米兵との邂逅(かいこう)
5.中国憲兵隊司令部へ
6.原爆投下前夜、そして当日
7.被爆死した米兵は何人いたののか?
8.相生橋の謎
9.遺族たち
10.エピローグ(他)
映画「灯篭流し(Paper Lanterns)」について
映画「灯篭流し(Paper Lanterns)」
は、映画監督のバリー・フレシェットさん製作のドキュメンタリー映画で森重昭さんの取り組みを記録したものです。
フレシェット監督の大叔父が被爆米兵の一人であるノーマン・ブリセットさんの親友だったということから、監督は森さんの取り組みを知りました。
監督は2013年に初めて森さんに連絡を取り、翌年、本に書かれていることが真実かどうかを確かめるために来日します。
そして森さんのお宅を訪問し、森さんの取り組みを伝えなくてはと映画を制作するのです。
フレシェット監督はノーマン・ブリセットさんの甥や姪とともに再来日し、森さんは遺族との出会いを果たしました。
その感動のシーンは、映画「灯籠流し」の中にも出てきます。
映画の最後には森さんのこういう言葉があります。
これが、戦争なのですよ。だから戦争をしてはいけないのです。戦争は絶対にしちゃいけないという結論を学びました。今後とも世界が平和であることを祈りましょう。
引用元 https://www.nippon.com/ja/people/e00097/
今年2018年5月、森重昭さんは初渡米し、戦没者慰霊式に参列します。
そしてニューヨーク国連本部で行われた「灯籠流し」の上映会に出席し、スピーチをしました。
スピーチではご自分や妻の被爆体験を語った後、「米国は持っている素晴らしい技術を人殺しではなく、平和のために使って」と述べられました。
このことは連邦議会議事録にも記録されているそうです。
一人の人間が、ある人のために諦めずに何かをやり続けるということは、本当に尊くて、こんなにも大きな実を結ぶものなのかということを、森重昭さんから教えられました。