渋沢栄一の生い立ちと功績について!本名は?家系図も調査!

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先日、2021年放送のNHK大河ドラマは渋沢栄一を主人公にした「青天を衝け」であると発表されました。

渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれ、新1万円札の顔になるということで大きな関心が集まっています。

しかも、この渋沢栄一役を、今放送中の朝ドラ「なつぞら」の天陽君役で注目された吉沢亮さんがするということで益々話題をさらっています。

今回は、渋沢栄一の生い立ちと功績、本名そして家系図について探ってみたいと思います。

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渋沢栄一の生い立ち

まず、渋沢栄一の生い立ちを見ていきましょう。

子ども時代

渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)で父親、渋沢市郎右衛門元助と母親、栄(えい)の長男として生まれました。

父親の名前がとても長いのは、渋沢家の当主は代々、市郎右衛門と名乗ることになっていたからです。

渋沢栄一の父親は婿養子として渋沢家に来た人で、とても真面目で几帳面な人でした。

渋沢栄一の実家は農業を主とし、養蚕や藍の製造・販売そして金融業と幅広く仕事をしていました。

父親は武士になろうとしたこともあり、武芸や学問に秀でていました。

渋沢栄一は5歳になると、父親の勧めで読書を始め、6歳から父親に漢籍の素読を教わりました。

渋沢栄一は子どもの頃から知識欲が旺盛で、記憶力も素晴らしく、7歳からは従兄弟の尾高惇忠に四書五経や『日本外史』、そして論語まで学びました。

渋沢栄一は学問だけでなく、12歳頃からは剣術も習い始め、こちらの方もめきめき上達していきました。

まさに文武両道ですね。

そして14歳になると、周辺の村々を回り、藍葉の仕入れを行うようになります。

こうして商売の腕も上げていきました。

最初の結婚から尊皇攘夷そして大蔵省へ

1853(嘉永6)年のペリー艦隊来航をきっかけに日本は鎖国時代に突入しますが、5年後、アメリカ等と修好通商条約が結び、鎖国時代は終わります。

渋沢栄一は19歳で従兄弟で先生だった尾高惇忠の妹、尾高千代と結婚します。

その後、1861(文久元)年に江戸に行き、儒学者、海保漁村の門下に入りました。

また剣術は千葉栄次郎から北辰一刀流を学ぶことになります。

渋沢栄一はそこの門下生達と交流を深める中で、尊王攘夷の思想に目覚めました。

尊皇攘夷というのは、天皇を尊び政治の中心に据えようとする思想と外敵を排除しようとする思想が結びついたもので、討幕運動へと発展していきました。

渋沢栄一も倒幕を計画しますが、尾高惇忠に説得されて実行には至りませんでした。

父親も渋沢栄一が尊皇攘夷の活動をすることに怒り、渋沢栄一を勘当してしまいます。

その後、渋沢栄一は京都に向かいますが、尊皇攘夷活動に行き詰まり、一橋慶喜(後の徳川慶喜)の臣下になりました。

う~ん、倒幕まで考えた人が幕府に仕えることになるとは・・・、いろいろあったのでしょうね。

1867(慶応2)年、一橋慶喜は第15代征夷大将軍となります。

江戸幕府最後の将軍です。

この頃、フランス、パリでは万国博覧会が行われており、渋沢栄一は将軍の代理として出席した徳川慶喜の異母弟、徳川昭武に従い、遣欧使節団の一員としてフランスに行きました。

渋沢栄一は、パリ万国博覧会に出席した後、ヨーロッパ各地の先進的な産業や軍備を見て回りました。

その後、徳川昭武がパリに留学したので、渋沢栄一も共に留学しましたが、1868年、明治維新により誕生した明治政府からの帰国命令を受けて、日本に戻りました。

渋沢栄一は主君であった徳川慶喜から「これからは自分の道を行くように。」と言われ、1869年、フランスで学んだことを生かして商法会所を設立しました。

しかし、その年の10月、大隈重信に説得されて大蔵省に入省します。

官僚となった渋沢栄一は大蔵省の改革に乗り出すますが、大久保利通や大隈重信と予算編成を巡って対立し、1873年に退官しました。

渋沢栄一に厚い信頼を置いていた井上馨も同時期に退官します。

実業家時代

34歳で大蔵省を退官した渋沢栄一は、その設立に関わった第一国立銀行の総監役に就任、後に頭取になりました。

第一国立銀行は第一勧業銀行となり、現在のみずほ銀行へとつながっています。

他に、七十七国立銀行など多くの地方銀行の設立を指導します。

それだけではなく、現在の東京海上火災保険、王子製紙、東洋紡績、太平洋セメント、帝国ホテル、東京証券取引所、日本鉄道株式会社、東京電力など、実に500以上の企業の設立に関わりました。

渋沢栄一が関わった業種は広範囲に渡り、関わっていない業種はないのではないかと思える程です。

また理化学研究所の副総裁や日本放送協会の顧問も務めました。

引退と社会公共事業

渋沢栄一は1909(明治42)年、70歳を迎え、金融関係以外の約60社の役職を引退しました。

その5年後の1916(大正)5年には金融界からも退きました。

渋沢栄一の事業はこれで終わりではなく、この後、社会公共事業に力を入れることになります。

そのことについては後述の「渋沢栄一の功績」のところに書いています。

こうして多くの事業を成し遂げ、日本社会の発展に貢献した渋沢栄一は1931(昭和6)年12月11日に91歳の生涯を閉じました。

渋沢栄一が眠る東京上野の墓地のすぐそばには、かつての主君だったた徳川慶喜の墓所があります。



渋沢栄一の功績について

渋沢栄一は本当に多くの功績を残しました。

少年の頃から家業の藍葉の買い付けをやり経済観念が発達していたことや論語を学んでいたことなどの基盤の上に、2年近いヨーロッパでの経験が、その後の日本の近代化に大きく貢献しました。

渋沢栄一の功績を経済面と社会面に分けて紹介します。

日本経済の発展

渋沢栄一は近代日本の経済の発展に大きな功績を残しました。

渋沢栄一は実業家時代から、次世代の日本経済を背負う若者のために数多くの実業学校の創設に関わりました。

退職してからも1875(明治8)年、商法講習所を設立しました。

渋沢栄一が多くの会社や実業学校の創立に関わったのは私財を増やすためではなく、自分が見てきたヨーロッパ諸国のように、日本の近代産業を発展させるためでした。

そのために東京商工会議所の前身である東京商法会議所などの代表として政府にもその重要性を訴え、日本経済の発展に貢献しました。

渋沢栄一はその功績により、「日本資本主義の父」と呼ばれています。

社会活動

渋沢栄一の功績は経済界にとどまりませんでした。

渋沢栄一は人々の暮らしを守ることや向上させることを願い、多くの会社の役員をしながら、社会活動の面でも大きな功績を残しています。

渋沢栄一は養育院の院長を務めたり、東京慈恵会や日本赤十字社、また癩予防協会の設立にも関わりました。

1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生します。

兜町にあった渋沢事務所は全焼し、多くの重要な書類が焼失しました。

しかし、飛鳥山にあった自宅は無事だったので、渋沢栄一は埼玉から米を取り寄せ、

自宅を拠点にして炊き出しを始めます。

その時、渋沢栄一は83歳。

子供達が心配して避難を勧めますが、渋沢栄一はこう言ったそうです。

わしのような老人は、こういう時にいささかなりとも働いてこそ、生きている申し訳がたつようなものだ。

引用元 https://www.shibusawa.or.jp/museum/newsletter/326.html

何とすごい人なのでしょう!

そして募金活動や情報案内所、臨時病院の設置など多くの救援・復興事業を進めたのです。

また教育面においても大きな功績を残しました。

大倉商業学校(現在の東京経済大学)、国士舘、日本女子大学校等の設立や同志社大学の寄付金集め等に携わりました。

引退後は国際親善や、女子教育の振興、学術文化の助成などでの功績もあります。

実業関係で関わった会社は約500と言われますが、社会活動関係で関わった事業は600を超すのだそうです。

幼い頃に親しんだ論語は彼の生き方の基盤になっていたようです。

新1万円札の肖像に

渋沢栄一は2024年に刷新される新1万円札の肖像画に決まりました。

実は過去にも紙幣の肖像の候補者になったことがあります。

1963年に千円札の顔を選ぶ時には伊藤博文と渋沢栄一が最終選考に残りました。

しかし、その時、渋沢栄一は落選し、伊藤博文が選ばれました。

落選の理由は、ひげがないので当時の技術では偽造されやすいということだったようです。

でも今の技術はすごく進歩していて、今度の新札には偽造できないいくつものカラクリがほどこされるのだそうです。

この時代に、自己の利益の追求だけでなく、人々の幸せのために多くの功績を残した「日本資本主義の父」、渋沢栄一が1万円札の顔になることは大きな意味のあることではないでしょうか。



渋沢栄一の本名は?

渋沢栄一の幼い頃の名前は栄二郎でした。

「栄」の字は、母親の名前から取ったものだと思われます。

その後、19歳で結婚した時に、「栄一郎」と改名します。

きっと、「二」と付くのが気に食わなかったのでしょうね。

そして「篤太夫」「篤太郎」と呼び名を変えますが、一般的な呼び名は「栄一郎」に落ち着きます。

しかし、本名は栄一としました。

渋沢栄一の家系図も調査!

渋沢栄一の家系図を見ていくと、子孫がどんどん広がり、社会的に活躍した方がたくさんおられます。

渋沢栄一は19歳で結婚し、2男3女をもうけました。

しかし、妻の千代はコレラにかかり、42歳という若さでなくなってしまいました。

千代が亡くなった翌年に、渋沢栄一は大富豪、伊藤八兵衛の二女、兼子と再婚します。

渋沢栄一と兼子との間には2男2女が生まれました。

また渋沢栄一にはお妾さんが3人いたと言われており、子供は全部で50人程だそうです。びっくりですね。

現代でも渋沢栄一の子孫達は活躍されています。

それでは、家系図の中から何人かをピックアップして紹介していきます。

歌子

最初の妻、千代との間に生まれた長女です。

法学者、穂積陳重男爵のもとへ嫁ぎました。

子供は6人生まれました。

琴子

千代との間に生まれた二女です。

法学博士であり大蔵大臣も務めた阪谷芳郎子爵に嫁ぎました。

渋沢武之助

後妻、兼子との間に生まれた長男です。

石川島飛行機製作所2代目社長になりました。

渋沢正雄

兼子との間に生まれた二男です。

石川島飛行機製作所の初代社長です。

また日本製鐵の副社長でした。

愛子

兼子との間に生まれた長女です。

第一銀行社長、明石照男に嫁ぎました。

渋沢秀雄

四男です。

東宝映画の取締役会長になりました。

随筆家としても有名で、父親、渋沢栄一について書いた「父を偲ぶ」「渋沢栄
一」「父渋沢栄一 上・下」などがあります。

渋沢敬三

渋沢栄一の孫です。

父親は渋沢栄一と千代の間の長男、渋沢篤二です。

財界人であり、第16代日本銀行総裁や大蔵大臣を務めましたが、一方、民俗学者としても有名で、「民俗学の父」と言われています。

大川慶次郎

渋沢栄一のひ孫です。

競馬の解説者になり、「競馬の神様」と呼ばれました。

渋沢元治

渋沢栄一の甥です。

東京帝国大学名誉教授であり名古屋帝国大学の初代総長になりました。

また水力発電の開発に貢献し、電気保安分野に渋沢賞が設けられました。

1955年には文化功労者に選ばれています。

鮫島純子

渋沢栄一の孫です。

父親は渋沢栄一の三男にあたる渋沢正雄で、渋沢家の家督を継いでいます。

鮫島純子さんは1922年生まれ、現在95歳で、エッセイストとして今も活躍されています。

鮫島純子さんは78歳の時にエッセイストとしてデビューされ、著書「なにがあっても、ありがとう」はベストセラーになっています。

すごいです!

渋澤健

渋沢栄一の玄孫、つまり孫の孫です。

1961年生まれ、現在58歳です。

コモンズ投信株式会社創業者で、コモンズ投信株式会社会長。シブサワ・アンド・カンパニー株式会社代表取締役CEOです。

まとめ

今回は、渋沢栄一の生い立ちと功績、本名そして家系図についてお伝えしてきました。

渋沢栄一という人がどんなにすごい人物か、お分かりいただけたのではと思います。

2021年の大河ドラマ、それから2024年の新札の発行が楽しみですね。



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