今
朝、松本智津夫(まつもとちづお)死刑囚の死刑が執行されたというニュースが入ってきました。
今年、死刑が執行されるのではないかと言われていましたが、余りに突然のニュースに一瞬時が止まり、20数年前のいろいろな苦しい出来事が思い出されました。
と言っても、若い人達はよく分からないでしょうね。
それで、今回は松本智津夫(麻原彰晃)の生い立ちや経歴、家族についてお伝えしたいと思います。
松本智津夫の生い立ち
それでは、まず松本智津夫の生い立ちから見ていきたいと思います。
松本智津夫は1955年3月2日、熊本県八代市高植本町に9人兄弟の7番目として生まれました。
父親は畳職人だったのですが、大変貧しいくらしだったようです。
ちなみに祖父は警察官をしていました。
松本智津夫を含め、3人の子供は先天的な目の障害を持っていて、長男は全盲、4男である松本智津夫は左目がほとんど見えず、5男は弱視でした。
両親は仕事が忙しく、兄や姉が親代わりでした。
1961年、八代市立金剛小学校に入学しますが、その年の秋に熊本県立盲学校に転校します。
そして寄宿舎生活を始めることになります。
熊本県立盲学校は授業料や寄宿舎代、食費などが無料だったのだそうです。
それで、食いぶちを減らすために、両親は全盲ではないのに、彼を盲学校に入れたのではないかと言われています。
信じられないことですが、両親は彼が6歳で盲学校に入ってから卒業するまでの13年間、一度も面会に来たことはなかったのだそうです。
松本智津夫は「自分は親から捨てられたんだ。」と思っていたようです。
それは、誰でもそう思うでしょうね。
寄宿舎では目が少し見えるので、他の子供達より優位に立っていたようで、全盲の子供達をいじめたり、恐喝したりしていたそうです。
友達を恐喝して得たお金は、寄宿舎を卒業するまでに300万円ほどに達していました。
また人の上に立ちたいという欲求があったのでしょうか、小中高時代、児童会長や生徒会長に立候補しますが、全て落選します。
松本智津夫は1975年、20歳で熊本県立盲学校を卒業します。
その年、東京大学文化1類を受験するために上京しますが、9月には熊本の実家に戻り、兄の漢方薬店の手伝いを始めます。
翌年は受験勉強をするために熊本市の黒髪で下宿生活を始めます。
ここは国立の熊本大学があるところなので、東大を諦め、熊本大学に進もうとしたのでしょう。
しかし、5月には再び実家に戻り兄の店を手伝います。
7月、兄の店の元従業員が兄を侮辱したとして暴力を振るい、罰金刑に処せられます。
その後、松本智津夫は鍼灸免許を取得します。
この頃の松本智津夫には、東大卒の自民党の政治家になり、将来は総理大臣になるという夢があったようです。
松本智津夫の経歴
それでは松本智津夫の経歴を見ていきます。
松本智津夫は勉強が好きだったようです。
特に理系に興味があり、また英語や中国語も独学で勉強していました。
1978年、千葉県船橋市に「松本鍼灸院」を開院します。
その年の9月には「松本鍼灸院」を閉じて、診察室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開業。
しかし、鍼灸師をしていても病気の人を完治させることはできず、自分は無駄なことをしているのではないかと悩むようになり、気持ちが宗教の方に向いていきました。
1980年7月には保険料の不正請求が発覚。
同年8月、25歳の時、新宗教団体阿含宗に入信します。
1981年、船橋市に健康薬品販売店「BMA薬局」を開局し、無許可の医薬品を販売して儲けるのですが、6月に薬事法違反で逮捕されました。
1982年、経営塾をやっていた人物に弟子入りして「彰晃」の名をもらい、「松本彰晃」と名乗るようになります。
1983年、阿含宗を脱会し、東京都渋谷に、仙道やヨガ、東洋医学などを統合した超能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設します。
松本智津夫はこの頃から「麻原彰晃」と名乗るようになります。
「麻原彰晃」には仏教の守護神である阿修羅(アシュラ)と仏教の開祖である釈迦(しゃか)という意味が込められているのだそうです。
1984年、「鳳凰慶林館」をヨガ道場「オウムの会」に変更。
1985年、松本智津夫は修行中に「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)になるようにの啓示を受けたと言い、空中浮揚の写真が雑誌「ムー」や「トワイライトゾーン」に掲載されました。
1986年、ヨガ道場「オウムの会」を宗教団体「オウム神仙の会」と改称。
1987年、32歳の時、「オウム神仙の会」を「オウム真理教」に改称して布教活動を進めるようになります。
1988年、ダライ・ラマ14世との接見を数回行い、「オウム真理教」と松本智津夫(麻原彰晃)は全国的に知られるようになります。
それからは衆議院議員選挙への出馬や全国を震撼させるような事件を起こすことになります。
そして1995年5月に逮捕されました。
2006年9月に死刑確定。
そして逮捕から23年が経ち、今日、2018年7月6日に死刑が執行されました。
63歳でした。
松本智津夫の妻と息子と娘について
次に松本智津夫の妻と息子と娘について見ていきましょう。
妻について
松本智津夫の妻は松本知子さんです。
松本智津夫は通っていた代々木ゼミナールで妻と出会い、1978年1月に結婚します。
そして千葉県船橋市で暮らし始めました。
妻の松本知子さんは、夫である松本智津夫が薬事法違反で逮捕されたり、宗教にはまって家に帰らなくなったことで精神的に追い詰められ、相当に苦しい日々を過ごしたようです。
夫婦げんかの末に家を飛び出して行ったことも何度もあるそうです。
息子について
松本智津夫と妻の間には息子が2人います。
上の息子は1992年に生まれました。
1992年というのは、もう既に、父親の松本智津夫はオウム真理教の教祖として、世間から騒がれ、不安視されていた時です。
それで息子は学校に在籍することができず、ほとんど学校に行くことができませんでした。
下の息子は1994年に生まれています。
兄同様、ほとんど学校に行っていません。
2006年、埼玉県にある私立の中学校入試に合格しますが、麻原彰晃の息子だということで入学を拒否されました。
娘について
松本智津夫と妻の間には4人の娘がいます。
一番上の娘は、松本智津夫が結婚した1978年に生まれました。
その頃は、松本智津夫は鍼灸師として働いていた時で、まだ普通の家庭でした。
後に教団の中ではドゥルガーというホーリーネームを与えられ、正悟師という地位に就きました。
2番目の娘は1981年に生まれました。
ホーリーネームはカーリーと言いました。
3番目の娘は松本麗華(まつもと りか)さんです。
1983年に生まれました。
父親の松本智津夫に特に愛されたようで、教団での地位は正大師という松本智津夫の次の位でした。
ホーリーネームはアーチャリー。
松本麗華さんは松本智津夫(麻原彰晃)の娘であることを公にして、メディアへも出演しています。
2015年3月には手記「止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記」を出版しました。
父親の松本智津夫が収監されていた東京拘置所に、毎月面会に行っていたそうです。
4番目の娘は1989年に生まれました。
2010年には松本聡香というペンネームで「私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか」という本を出版しました。
彼女は家族と絶縁状態にあり、三女松本麗華さんの手記についても否定的な見解を示しています。
松本智津夫の兄弟について
最後に、松本智津夫の兄弟についても記しておきたいと思います。
松本智津夫は9人兄弟の7番目に生まれます。
松本智津夫には3人の兄と3人の姉そして2人の弟がいます。
家族は両親と9人兄弟の11人だったのですが、一番上の兄は全盲で盲学校に行き、松本智津夫も6歳で盲学校に入れられるので、家族全員で暮らした年月は大変短いものでした。
松本智津夫が恐ろしい事件を起こしてから、親兄弟はばらばらになりました。
熊本の八代にあった家も今はなく、跡地になっているそうです。
まとめ
今朝突然流れてきた松本智津夫への死刑執行のニュースに、23年前のあの日のことがまざまざとよみがえりました。
ここでは事件には触れませんが、松本智津夫(麻原彰晃)という人物がいかに多くの人の一生を狂わせたかを思うと、重くて黒い雲が心を塞ぎそうです。
事件の被害者やその家族だけでなく、彼の妻や子供達もその一人ではないでしょうか。
今日、3女の松本麗華さんのツイッターに心ない誹謗中傷が書き込まれているそうです。
私たちには彼女の人間としての尊厳を奪う権利はありません。
【追記】
7月9日(月)、松本智津夫元死刑囚の遺体が火葬され、遺骨は東京拘置所に戻されたそうです。
遺骨は、家族やオウム真理教と縁を切っている四女に渡されるというニュースもありましたが、まだ結論は出ていません。