PR

阪神淡路大震災から24年!避難所となった体育館で中学生達がやったことは?

社会のこと
記事内に広告が含まれています。

皆さん、こんにちは。

今日1月17日は阪神・淡路大震災が起きた日です。

あれから24年が経ちました。

1995年1月17日午前5時46分、マグニチュード7.3の巨大直下型地震は6434名の尊い命を奪いました。

朝食の準備が始まる頃の神戸の街は火の海になり、まるで映画を見ているように呆然とテレビの画面を見ていたのを思い出します。

私は17年程前、神戸に行き、その時のお話を聞いたことがあります。

話してくださったのは、鷹取中学校で震災当時校長先生をされていた近藤豊宣さん。

避難所になった学校で中学生達がやったこと。

その話は大きく私の心を動かし、見てはいないけど、今も映像として心の中に残っています。

今回はそのことを分かち合いたいと思います。

<スポンサード リンク>

 




そこにも差別が

鷹取中学校は神戸市内で最大規模の避難所となりました。

震災2日目で約3000人程の人達が押し寄せてきたそうです。

先生達は学校が再開される日のために、なるべく教室には避難者を入れないようにしたので、体育館や廊下は子供からお年寄りまで様々な人達で一杯になりました。

鷹取中学校の生徒も2名が震災の犠牲になり、生徒の家庭の6割以上が半壊または全壊でした。

そんな中、自分も被災しながら10数人の中学生と6人の先生達が、避難者を助けるために学校にやってきました。

しかし、そこで中学生達は悲しい光景を目にします。

それはそんな中でも差別があることです。

強くて元気な男性達が体育館の中央に場所を取り、外国人労働者や障がいを持つ人々がトイレの前やグラウンドの隅に追いやられていました。

中学生達はこの現実を目にし、十分に日本語が話せない外国人労働者に日本語で「がんばってください。」と声をかけ始めたそうです。



運動場に穴を掘り

断水しているので、当然トイレは大変なことになります。

便器からは汚物があふれ出し・・・。

そして何と、強い男性が女子トイレにまで入り込み、女性はトイレを使うことができなくなりました。

それを見かねた中学生達がやったことは・・・。

校舎全部からバケツを集め出しました。

そしてスコップを手に運動場の隅に穴を掘り始めます。

それから汚物をバケツに入れて運動場に運び出す。

それを見ていた大人達、最初は「そんなことしても無駄だ。」と言っていたのですが、中学生達の姿に感動し、中学生を手伝うようになったそうです。

子供達の純粋さと行動力が大人を動かしたのですね。



動けない高齢者の弁当を確保する女子生徒

避難者は時間になったら弁当が用意されている所に取りに行かないといけないんですが、元気な人達はすぐに行けます。

でもさっと動けない高齢者は遅くなり、とうとう弁当がもらえないこともあったそうです。

避難所に来ていた女子中学生の中に、同級生からのいじめが原因で不登校になった子がいました。

ある日、彼女が泣きながら運動場を走っていたそうです。

その後から彼女は変わります。

弁当をもらえなかったおばあちゃんのために弁当を取りに行き、おばあちゃんに差し出すのです。

それ以来、彼女はおばあちゃんに寄り添いお世話をします。

おばあちゃんは彼女の手を握って亡くなったそうです。

彼女は自分を受け入れることができるようになり、嫌なことは嫌と言えるようになりました。

まとめ

これらのことは、見たことはないのに、映像として私の中に残っている話です。

私が覚えている範囲で書きましたので、違っているところがあるかも知れません。

また近藤さんのお話はもっと詳しく、そして中学生達への愛に溢れていました。

そういう校長先生だったからこそ、こんな中学生が育ったのかも知れません。

そして、ただ物質的な救援ではなく、人と人とのつながりの大切さや人間の本当の強さを信じる方だったから、聞く者の心を動かす話ができたのだと思います。

あの時の中学生が、今40歳近くになっておられます。

こんなにすごい体験をした人達はきっとその後の人生で、人を大事にする生き方をされてきたのでしょうね。

そして、その子供さん達もそんな生き方を受け継いでいかれるのではないでしょうか。

最後に、改めて犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。



 

 

 

 

タイトルとURLをコピーしました