もうすぐ北京パラリンピックが始まりますね。
このパラリンピックに、夏のパラリンピックにも出場した山本篤選手がおられます。
山本篤選手は、北京パラリンピックとリオパラリンピックで銀メダルを獲得した義足の陸上選手です。
その山本篤選手は、スノーボード選手として、前回から冬の大会にも出場されているんです。
すごいですね!
今回は、そんな山本篤選手の結婚やプロフィールと経歴、そして出身高校や大学についてお伝えしていきます。
山本篤の結婚と妻と子供について
まず、山本篤選手の結婚と妻と子供についてお伝えします。
山本篤選手は結婚しておられて、妻のお名前は幸子さんと言われます。
妻の幸子さんは、小学校の先生をされているそうです。
山本篤選手は、魚の煮付けが好物ということで、きっと妻の手料理が原動力になっていることでしょうね。
山本篤選手には二人の子供さんがおられます。
上の子供さんは駿汰君と言って、2018年3月3日に誕生しました。
山本篤選手は将来、駿汰君とウイニングランをすることが夢だそうです。
「駿汰」という名前からも、その願いが伝わってきますね。
2人目も男の子で、2021年7月に生まれました。
2人の子供さんがもう少し大きくなったら、家族みんなで駆け回る姿が想像できますね。
山本篤のプロフィールと経歴
次に山本篤選手のプロフィールと経歴をお伝えします。
山本篤選手は1982年4月19日、静岡県掛川市に生まれました。
山本篤選手は子供の頃からスポーツが好きで、小学校では野球を、中学校ではバレーボールをしていました。
中学1年生の時、家族旅行に行った先でスノーボードを経験し、それ以来、趣味としてスノーボードをしていました。
掛川西高等学校に進学してからもバレーボール部に入り、活躍していました。ジャンプ力が凄かったそうです。
しかし高校2年生の春休みにスクーターで事故を起こし、左脛骨を粉砕骨折します。
そして左足を切断しなければいけなくなりました。
自分の義足を作ったことで将来は義肢装具士を志すようになり、高校卒業後、名古屋にある日本聴能言語福祉学院義肢装具学科に入学します。
そこである人から陸上競技を勧められ、陸上を始めることになります。
2002年5月、初めて日本身体障害者陸上競技選手権大会に参加し、同年9月の関東身体障害者陸上競技選手権大会では何と優勝してしまいます。
山本選手は義肢装具士の国家資格を取得し、就職も決まっていたのですが、パラリンピックを目指して陸上競技を続けることを決心しました。
2004年4月、大阪体育大学体育学部にスポーツ推薦で入学。陸上競技部に入部します。
そしてみるみるうちに世界に通用するトップアスリートに成長していくのです。
走り幅跳びでは、踏み切りを左の義足でするようになって、記録が大幅に伸びたのだそうです。
2008年、スズキ株式会社に入社します。
同年、北京パラリンピックに出場し、100mで5位に、そして走り幅跳びでは銀メダルを獲得し、パラリンピック陸上で、日本人初のメダリストとなりました。
その後、大阪体育大学大学院体育学博士課程に進んで運動力学を研究をします。
2012年、ロンドンパラリンピックに出場。日本陸上チームのキャプテンを務め、 100m で6位、200mで8位、走り幅跳びで5位に入賞しました。
2013年、IPC 陸上競技世界選手権大会では走り幅跳びでみごと金メダルに。
2014年のアジアパラ競技大会においては100m 、走り幅跳び、 400mリレーの3種目で金、200mで銀と、何とメダルと4個も獲得する驚異的な成績を残しました。
2015年の IPC 陸上競技世界選手権大会では走り幅跳びで2連覇を達成。
2016年5月、日本パラ陸上競技選手権大会において世界新記録を樹立。
同年、リオパラリンピックでは走り幅跳びで銀メダル、400mリレーで銅メダルを獲得。
2017年9月、スズキを退社し、翌月に新日本住設とスポンサー契約を結んでプロになりました。
そしてスノーボードでの冬季パラリンピック出場を目指します。
陸上で、上述のようなすごい成績を残しているのに、また新しい挑戦です。
2018年1月、アシックスジャパンとアドバイザリースタッフ契約を結びます。山本選手が陸上のスパイクやランニングシューズなどの商品開発についてアドバイスをするのだそうです。
今までの経験と運動力学の研究の成果を生かすんですね。
そして3月の平昌冬季パラリンピックに出場し、スノーボードクロスでは12位、バンクドスラロームでは左肩脱臼のため、残念ながら途中棄権になりました。
それから4年後の今年、2022年3月、北京パラリンピックに出場されます。
山本篤の出身高校と大学について
山本篤選手の出身高校は静岡県立掛川西高等学校です。
ここは高校野球の名門校として知られています。
山本篤選手は掛川西高校2年生の時に事故に遭いました。
高校卒業後は名古屋の日本聴能言語福祉学院義肢装具学科に入学します。
山本篤選手は、ここで義肢装具士の免許と国家資格を獲得しました。
山本篤選手の出身大学は、大阪体育大学です。
山本選手は、義肢装具士の免許取得後、パラリンピックに出るために、スポーツ推薦で大阪体育大学体育学部に進学しました。
しかし、簡単に入学できたわけではありませんでした。
当時は障がい者が体育大学に入学することは大変異例のことだったからです。
実技試験の採点方法やトイレ、エレベーターなどの問題が議論され、結果として入学することができました。
大阪体育大学は山本選手を受け入れて本当によかったですね。
今は母校で客員准教授として教える側です。
まとめ
山本篤選手は「障害を持ったことで幸せになった。」と言われます。
自分に起きた出来事をプラスに変えることのできる強さは驚きです。
山本選手の好きな言葉は「挑戦」、嫌いな言葉は「やらない」だそうです。
いかにも山本選手らしいですね。
山本篤選手の北京パラリンピックでの挑戦を応援します!